2009年12月27日日曜日

「パンドラの匣」

ひとことでいえば

冨 永 監 督 ず る い ! ! !


「パビリオン山椒魚」では"シュール"と呼ぶ余地が結構あったトミナガworld
("シュール"って100%理解してないけど面白いときに手っ取り早く使える便利な言葉)

あのお姉さん(キタキマユ)が普段流暢にしゃべれないのに

テレビの撮影が入った時はベラベラしゃべってたわかりやすーいずるさを

全体の60~70%くらいシーンに忍ばせているわかりやすさ!


舞台は「健康道場」と呼ばれる結核の男性を療養する施設での集団生活なのですが

患者と看護婦(※当時の呼称を尊重)ひとりひとりにあだ名がつけられていて

変なあだ名と配役とキャラクターが絶妙で素晴らしい!特に脇役!!

冨永映画に欠かせない変な日本語っぷりも健在です


驚くべきは

その変なあだ名や変な日本語は原作のまま!

あたかも監督が面白おかしく脚色したものに見えるのですが

原作の小説と照らし合わせてみるとちゃんと書かれてるんです

でも もちろんそれだけで終わるほど野暮ではなくて

場面が変わるたびにスクリーンに向かってツッコミたくなることだらけ!で

イライラッ イライラッ させられました
( 褒め言葉 です)


ずるいといえば窪塚(洋介)くんの露出具合!!

主人公「ひばり」(染谷将太)や看護婦の「竹さん」(川上未映子)「マア坊」(仲 里依紗)に比べ

出番は少なめなのですが

出た時の存在感と "とある仕草" とにかくずるい!

窪塚くんは復帰後の作品もDVDでちょろちょろ観てはいたのですが

個人的には久々のハマり役に恵まれた気がしました


「マア坊」なのか?本人なのか?どこまで演技をつけたのか妙に気になる

仲 里依紗ちゃんの可愛らしさも かなり目立ってました


川上さんで印象に残ったのは

菊地成孔さんが奏でるテーマに乗せて登場するオープニングとエンディングです

劇中はダメだったという意味では断じてなく
(むしろ逆で しっかりと女優女優してました)

オープニングとエンディング これものすごーく重要なんです!

オープニングでテーマ音楽に耳を傾けて

"あーこのままずーっと続いてくれたら気持ちいいなあー"と浸ってると

プツッと途切れて本編が始まり

エンディングで同じテーマが流れると

"あれっ?ずっと夢でも見てた??" という錯覚に陥ります

この作用は物語にユートピアっぽさを持たせる上でかなり効果的でした


菊地成孔さんといえば この方の音楽がまたずるい!

「ひばり」と「マア坊」が2人きりになるシーンで流れる音楽が

"これ絶対に「パビリオン山椒魚」でも使われてたよね?"という音でした

それがどうしても気になって気になって仕方なかったのですが

鑑賞後に読んだパンフの冨永×菊地対談にその答えが掲載されていました

菊地さんが "とある意図"のもとに「パビリオン~」とまったく同じ音楽を付けたようです

だてに付き合いが短くないお2人の間柄!と感心してしまいました


でもいちばんずるい!のは

何だかんだいってラストに向けてちゃんとシリアスにまとまってゆくところ

かもしれないです


パンフで知ったのですが 

劇中の看護婦の制服をシアタープロダクツがデザインしていて

冨永監督は"普段洋服をデザインする感覚で制服をデザインして欲しい"という

依頼の仕方をされたそうです

その意図が結構面白くて 

何でも当時の時代考証に合わせると制服がものすごーくダサいらしく

その制服を女優さんに着せて演技してもらっても

女優さんのテンションが下がりいい絵が撮れない!

と考えたそうです

この発想って冨永監督らしいなあ と思った次第です


"意外と原作に忠実なのにトミナガworld全開!"という構図は

おそらく原作選びのプロセスから生まれたものだと思います

てっきり太宰生誕100年に合わせ監督のもとにオファーがきたのかと思いきや

まるっきり逆で

太宰生誕100年のタイミングなら映画化が実現しやすいだろう と

監督がもともとあたためていたネタだったようです

何でも「パビリオン山椒魚」で井伏鱒二について資料を集めている際に

たまたま太宰のこの作品を知り興味を持ったのだとか


"原作のあの部分が描かれてなくて物足りない"

"原作の世界観をちゃんと再現出来ていない"

といった見方をする人にとってのこの映画に対する評価は僕にはわかりませんが

文学・映画・音楽がバランス良く調和がとれてるという意味では優れた映画だなあ

と 思いました






















2009年12月21日月曜日

「Inglorious Bastards」

タランティーノがナチスを題材に扱った最大の目的は

「民族の祭典」などで映画(芸術)と政治の関係について物議をかもした

リーフェンシュタール

ナチスの亡霊(より具体的に言えばゲッベルス)から解放することで

映画(あるいは芸術)は何者からも縛られない自由で独立したものであるということを

高らかに宣言したかったのではないでしょうか

その証拠にこの映画がバスターズとレジスタンスによるナチス打倒という勧善懲悪が

メインテーマではないことは

"第一章"におけるハンス大佐(クリストフ・ヴァルツ)と

"第二章"におけるレイン中尉(ブラッド・ピット)が

案外似たり寄ったりな部分を持っていることを最初に見せつけておく構成に

ほのめかされていて

(とはいえ復讐劇に勝ち負けは当然つきものでそれは"第五章"できっちりと描かれています)

こういう言い方は語弊があるかもしれませんが

善悪を超えたさらに高いレベルを到達点に置いている意気込みが

ひしひしと伝わってきました

(・・・なのにエンターテイメントというところがこれがまたすごい!)


ナチスの没落やレジスタンスによるナチへの抵抗というあらゆる作品を観てきましたが

レジスタンスについては"多勢に無勢"ながら果敢に正義を貫くヒロイックなもの

ナチスについては"盗人にも三分の理"的なもの

いずれも小さなカタルシスと大きなモヤモヤが残るものが多かったのが正直な感想です

そこをタランティーノはいわばヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」に

マフィアとウエスタンを乱入させ

スクリーンに穴があくくらいマシンガンとライフルで撃ちまくったような爽快感があり

よくぞやってくれた!という思いで一杯です

これはフィクションがノンフィクションに勝利した貴重な映画だと思います


携帯のアンテナが一本もたたない薄暗い地下室のような劇場ではなく

壁一枚隔てたすぐ隣のスクリーンで子供向けアニメ映画が流れる明るいシネコンで

こんなマニアックな映画を豪華なキャストと莫大な制作費を掛けて作ることが許されるのは

マニアックさを脳みその中でエンターテイメントに再構築することが出来る

タランティーノの才能以外の何者でもないでしょう

同時にこのタランティーノの脳内エンターテイメントは

尋常ではない映画知識を蓄えた部類の映画オタクかつ映画好きであるタランティーノが

映画オタク・映画好きとして面白いと思った妄想を具体的に形にしたものに

他ならないわけですから

結局のところ映画好きが100%面白いと思ったものを外さず映画として撮るという

ごく当たり前のことながら実は意外と実現されていないことと真剣に向き合い

結果として実を結んだ

ハリウッドの宝だと思います

鑑賞後この人がハリウッド映画をひとりで背負っているのでは?

と思えてしまったくらい

タランティーノはほんとに心底映画好きで映画を愛してるんだなと痛感し

甚く感動させられました


劇中でデヴィッド・ボウイによる映画「キャット・ピープル」の主題歌

"Cat People (Putting Out Fire)" が印象的な場面で使用されていますが

熱狂的なボウイ信者から"イタロ・ディスコ?"と苦汁を飲まされた不遇な時期の曲が

これほど格好良く響くとは夢にも思わず大いに改心させられる思いがしました

そう聞こえるようにお膳立てしたタランティーノの音楽センスに脱帽です





ナチスの亡霊を退散させる映画の重要な場面で使われている

"Cat People (Putting Out Fire)" が

"シン・ホワイト・デューク"というキャラクターを演じたことがナチスとの関連性を疑われ

"ベルリン三部作" という内省的な方向に走り

"スケアリー・モンスターズ"を経て再びまぶしいスポット・ライトを浴びるちょうど過渡期に

デヴィッド・ボウイが歌った曲であるというのは

何とも出来過ぎた話ですね














2009年12月8日火曜日

Anna Karina「La Religieuse」







ジャック・リヴェットの演出的意図を感じます。


この作品を観ると、

自由とは、

他の誰でもなく自分自身が"自由だ"と実感したときのみ獲得できるものではないか?

と考えてしまいます。

ただ同時に、

自分がいつどんなときに自由を実感することが出来るか?を予測することの難しさを、

思い知らされる気がしてしまうのも事実です。

そこにこの作品の魅力を感じます。


アンナ・カリーナが激しく情熱をぶつけた演技で、

ゴダール映画とは違う顔をのぞかせてくれている点も、

ファンとしてはかなり見どころです。











2009年11月24日火曜日

ゆらゆら帝国 KYOTO MUSE HALL

先日ゆらゆら帝国のライブを観てきました


坂本さんが「ロボットでした」曲中ギターソロで見せた

全身から放たれる激しい自我の光は

"自分がいちばん光ってる瞬間っていつだろう? でも自分で決めることではないのかも" と

家路に赴くまで余光がちらつくほど凄まじいものでした








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2009年11月16日月曜日

「crean」

"母と子の感動の物語"というおおよそのパブリック・イメージを

省略を多用した大胆な編集で大胆に裏切った

オリヴィエ・アサイヤス監督の天才的な野心が光る

母と子の感動の物語です


省略が想像力をかき立て

ありがちな押しつけがましい感動ではない

微熱にうなされるような感動の持続を

ラストに向け自然と高まらせます


マギー・チャンの演技がどれほど素晴らしいものか

その全てを語り尽くす自信はありませんが

この名演がもし胸を打たなかったとするならば

それはとても悲しいことです











2009年10月27日火曜日

「空気人形」

空気人形(ペ・ドゥナ)が心を持った人形として誕生する

とても美しいシーンで物語の幕は開くわけですが

僕はこのシーンにむしろ死を連想しました

誕生は同時に確実に死へ向かうという無常感を描いているのみならず

死が匂わす強烈なエロスが生へと昇華される美しさ

つまり 

空気人形の死へ向かう過程でエロスが生を補ってゆく話に違いないと

このシーンを観て直感的にそう思い 

また実際そういう話だったと思っています

レンタルビデオ屋の店員(ARATA)が空気人形に対し抱いてしまった特殊な性的衝動や

「ベティー・ブルー」「盲獣」などにも通ずる"エロスとタナトス"(性愛と死)を行き交う

危険かつ美しいシーンなど

いわゆる性描写の中にそれが明らかに投影されているということと

自らのアイデンティティを問うため

空気人形が生みの親である人形師(オダギリジョー)の元を訪れ

帰り際に人形師に声をかけられ空気人形が答えるシーン

(このシーンものすごく好きです!)で

空気人形が言った言葉など

是枝監督が舞台挨拶で

"ここ数年僕自身が見てきたものの中に欠落していると感じたものを
 
心を持った人形が補う話にした"

とおっしゃっていた通り

欠落したものに息を吹き込み再生する させようとする 

一貫したモチーフがあるということが

ストーリーを隅々に至るまで瑞々しく 

また わかりやすくしていたと思います




欠落したものに息を吹き込み再生する 

ということで言えば

欠落したものとは日本映画そのもの と

ストーリーの説得力で伝える意図が監督の中にはあったんじゃないか?と 

どうしても思えてしまいます

レンタルビデオ屋の店内で店長(岩松了)がDVDを片手に

"こんなものは代用品でしかない 映画は映画館で観るもの"と語るシーンや

テオ・アンゲロプロスの中でもややマイナーめな作品が置いてないかを客に尋ねられ

"うちはもっぱらレンタル専用DVDだから『T』に行って"

"いやこれはDVD-BOXにしかないので『T』にも置いてないです"

というやりとりをするシーン

あるいは上記のようなやりとりが出来る店員の映画に対する豊富な知識や情熱

売れ筋の新作ではなく古い名画のポスターやPOPで装飾された店内など

つまり一言で言ってしまえば

作品の舞台となる街の小さなレンタルビデオ屋が

映画に対する"心を持った人形" であり

作品の圧倒的な説得力を結果で示すことで

欠落した日本映画に"息を吹き込み"再生する意思を表明したい というのが

この作品のもうひとつのテーマだったのではないでしょうか?

(主人公の設定 撮影:リー・ピンビン ラストシーンなどから
 
「赤い風船」へのオマージュとも思えます)




作品の圧倒的な説得力を築く上での重要な要素として

映画音楽のあるべき姿を見事に体現しているのは強調すべき点です

例えば ビデオ屋まわりの風景にリアリティを持たせるために

店内BGMと付近の音がケンカしてガヤガヤした喧騒を演出することに何ら必然性はなく

world's end girlfriend書き下ろしのインストゥルメンタルを

空気人形に寄りそうように奏でるファンダジックさの方が

作品に"息を吹き込み"リアルを際立たせているわけです

加えて エンドロールに至るまでボーカルを一切入れないことが

普通の映画よりも少なめな登場人物のセリフや

随所に出てくる空気人形のモノローグ

物語を語る上で重要な"Happy Birthday To You~"

などを活かす役割を担っていることも重要です




日頃目に留めない とあるもの が美しいという帰結に込めた美的感覚と現代的な意義

素晴らしいとしか言いようがなく とても感動しました











2009年10月23日金曜日

「手紙」

今日はやたらこの映画のことが頭に浮かんでは消えた

芸能人裁判 電車脱線事故・・・
被害者もしくは家族や遺族の怒りや悲しみ
やりきれなさや不条理さを納めたいがために
感情をぶつける矛先を何かに見いだそうとする気持ち
"わかる"

いや 実はわからない 
わかったふりをしているだけに思えて仕方がない
というより わかりっこない

いつもと変わらず電車に揺られ出かけて帰る
帰宅してテレビをつけ
事故の責任は会社の体質そのものという被害者や遺族の感情に
同調しそうになる

何の興味もない芸能人の裁判の模様が
事件の核心に触れずのらりくらりとしていることに
いら立つ

同じ社会を生きているという意味で
まったく無関係ではいられないことはもちろんわかっている
だが わかりっこない当事者のやりきれない思いを
"わかる" かのように処理しようとする自分の頭の中が
さっぱりわからなくなる

社会とおもいっきりつながっている自分が
社会から不条理に断絶を強いられた人々の気持ちを
お気楽にくみ取ろうとすることに腹が立つ

しかも腹立たしい思いを抱えながら
お腹がすいて夕食は何を食べようか?と同時並行で考えている
実にくだらない

このようなくだらなさが
結局なにもわかりっこない証拠なんだと思う

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主人公(山田孝之)はお笑い芸人として成り上がる夢を捨て
恋人(沢尻エリカ)と平凡で穏やかな暮らしを歩むことで幸せをつかもうとする
就職先での評価もすこぶる高く一見順風満帆に見えた

しかしながら 
兄(玉山鉄二)が殺人犯として刑務所に入獄していることが会社にバレると
工場の単純労働現場に左遷されてしまう

工場を訪れた経営者が主人公へ
"ここからはじめるんだ"と語りかける

兄の犯罪を犯した原因が自らの学費を"かせぐ"ためにあったことに
複雑な思いを抱いていた主人公は
面会を断っていた兄にお笑い芸人の慰問という形で
間接的に再会を果たすが
ステージを見つめ泣きじゃくる兄の演技がすごい

今 "演技"と言ったが
正確には"演技"というより "素" "リアル"
タマテツの感情移入っぷりがすごい

迫真の演技は感動を誘うが
共感や救いとはまた別のような気がした
救いがあるとすれば
それは主人公と兄の間にだけ存在する絆であって
観ているこちらがどうのこうのいうものでもない感じがした

突き放した言い方に聞こえるかもしれないが
当事者にならない内はフィクションとして感動している類の作品に感じた

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映画の出来がどうこうとか原作を読んでいないことに触れる気はない
この映画を多くの人に観て 感動して 共感してほしい! と思って
書いているわけでもない

ただ今日はやたらこの映画のことが頭に浮かんでは消えた という
僕のつまらない頭の中をつらつらと書いただけ









2009年10月1日木曜日

小泉文夫『音楽の根源にあるもの』

日本における民族音楽研究第一人者のエッセイ・講演録・対談をまとめたものです


本書収録「自然民族における音楽の発展」という講演録において

"リズムは人間だけのものか?"という問題提起に沿って話は進んでゆく中で

バリ島のカエルが出て来ます

バリ島のカエルは"ボーン ボーン"という声で鳴くらしくリズムがとりやすいからか

あらかじめ録音したカエルの鳴き声をテープで流すとそれに合わせて鳴こうとし 

テープを止めると鳴きやんでしまうそうです

つまり 

一緒に音楽を鳴らしたいという願望はバリ島のカエルにも存在することになるわけですが

途中でところどころズレが生じてきてしまい 

リズムを合わせるという感覚を獲得していないということがわかってしまうわけです


では人間ならば必ずリズムを合わせることができるのかというと 

それは結論の急ぎ過ぎで

それを検証する例としてエスキモーを挙げています

鹿を捕って暮らすカナダのカリブー・エスキモーが

金たらいをたたきながら1人で歌っているテープを聞くと

自分の歌声にリズムが合わせられないのがわかるそうです

エスキモーがリズムを習得していないという話は一部で知れ渡っているそうですが

それがエスキモー全てに当てはまる話ではないということを

今度はアラスカの鯨エスキモーを例にとり説明されているのですが

鯨を捕るときに歌う歌を録音すると 歌と太鼓の拍子がピッタリ合っていたそうです

さらに驚くことに 

"今のは失敗だから消してくれ" と

エスキモーから録り直しを要求されたとのこと

帰国して "失敗" と言われたテープを聞き直してみると 

たしかにリズムがほんのわずかズレていたそうです

つまり エスキモー=リズム感がない というのは間違いだったわけです


このふたつのエスキモーの違いはどこから来るのでしょうか?

"いっしょにごはんを食べるために、食糧を獲得するために働かなければならない"
という"共同社会"

に 違いが生じる原因があると仮説を立てています

リズムが取れなかったカリブー・エスキモーは1人で狩猟に出かけるのに対し

鯨エスキモーは捕鯨の息を合わせるために歌う慣習がある

どうやらそこにリズム感の致命的な差が生じるのではないか?と考えるわけです

仮説を裏付けるためにスリランカのベッダという種族の例なども出て来ますが

中身に違いはあるものの結論としては鯨エスキモーと同様のものに落ち着いています


ここまでは なるほどなるほど と感心しながら面白く読んでいたのですが

次の一節に 心臓を射抜かれたようなショックを受けました


"そういうふうに考えてみると、私たちが音楽的だと考えていることが、
本当は人間の不幸の始まりかもしれない"


リズムを習得すること="共同社会"を営むことは 

私有を巡る争いの始まりでもあるから

"音楽的"=リズム感が良い,リズムを合わせる ということが

果たして人間にとって最も望ましい音楽の形態と本当に言えるのだろうか? という 

アイロニカルな問いかけに感じ 身震いさせられる思いがしました


このあとも首狩り族 バリ島のケチャ 沖縄民謡 アフリカの原住民 など

具体的に話が進むわけですが

結論をざっくりと述べてしまえば 音楽のリズムは好き/嫌いではなく

社会や生活とのかかわりの中で形成されてゆくということが書かれているように感じました


自然や民族や社会と音楽との関わりを音楽理論の知識なく楽しく読める論集で

音楽というものを通じまるで世界を旅してるような気分になれる本です


「小泉文夫全集」を理解出来る範囲内で読んでみたくなりました









2009年9月23日水曜日

「火の馬」

この映画は例えば「スラムドッグ$ミリオネア」のように

"貧しいけど運命だか偶然だか何だかわかんないもののおかげで人生何とかなるさ!"と

幸運が有り余ってマサラ・ビートでダンス!みたいな陽気なノリとはほぼ180度逆で

不幸の連続人生恨み節で死者が出たら笛吹いて踊るひたすら重く暗い90分

一言で言えば とても薄気味悪い映画です


その薄気味悪さのルーツは主人公イワンの少年時代にさかのぼります

少年時代にイワンは家族と教会へ行き1枚の絵画を目にし

"これは悪魔なの?"と尋ねると

父親は

"悪魔(サタン)は人間の心の中にのみ存在する"

と答えるのですが

この父親の一言が「火の馬」全体の骨格となっています


すなわち 

人間の妬みや憎しみに作り出された悪が全ての登場人物に覆い被さり

悪が人々に連鎖しながら次々と不幸な出来事を巻き起こしてゆくのですが

その不幸は第三者にとってただの噂話や音楽に合わせて踊る酒宴の対象でしかなく

そこに再び妬みや憎しみによって悪が作り出される余地が生まれ・・・の繰り返しで

登場人物のほぼ全員 度合いの違いはあれ悪の要素を心のうちに秘めています

唯一悪の要素が無いと言えるのはイワンの幼馴染みで恋人のマリーシュカだけです

イワンもマリーシュカと幸せな恋愛を持続出来ていれば悪の要素をを持たなくて済んだのですが

偶然(運命?)が引き起こした とある出来事によって

イワンの人生は一変して不幸のどん底へと堕ちていってしまうのです
(ここが「スラムドッグ$ミリオネア」とは大違い!)


「火の馬」というタイトルは "走馬灯"という言葉に近いのかもしれません

劇中で人の死にまつわるシーンがいくつも出て来ますが

そのシーンにやたらと斬新な映像表現があてがわれている気がします

人が殺されるシーンや とある人物の死を象徴するシーンなどが

この映画でしか見たことのないような表現のされ方をしていて

血が噴き出すホラーなどとは全く異質の記憶が尾を引きます


もうひとつ印象に残るのは 舞台となるウクライナ民族の土着性です

宗教・音楽・祭り・精霊といったものが深く深く日常生活に入り込んでいて

この土着性が妬み・憎しみ=悪と深く関わっているのも物語の特徴です


とにかく 救いの要素ほぼゼロ!

映画が終わり映画館を出て大きく深呼吸することで救われたと思うほどです(笑)

それでも自宅にあるDVDではなく わざわざ映画館まで足を運んで

救われない気持ちになる悲劇を目の当たりにすることは

生きているという実感や充実感を教えてくれることを意味するとも

言えるのではないでしょうか

幸いにして人間の心の中に潜む悪を映し出すのはパラジャーノフの圧倒的な映像美です!









2009年9月21日月曜日

『三月の5日間』







岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』収録

演劇で有名な「三月の5日間」をようやく読みました


内容を乱暴に一言で説明するならば


"外国の街に旅行で行ったりするときに味わえる、

日常感を寄せ付けずにいられる数日間の感じ。

それをなぜか今、

それなりに慣れ親しんでしまっている渋谷にいるというのに

味わえているということ"



という本文中の箇所が妥当と思われますが 

もう少し具体的に補足すると

六本木に実在するライブハウスで出会った男女が

アメリカがイラクを攻撃した5日間 渋谷のラブホテルで

テレビも付けず携帯の電源もオフにして過ごしたときに

味わうことができた非日常感に関する物語

と言い表すことができると思います


この小説が面白いなと思ったのは

まるで外国の街にいるような渋谷が普段通りの渋谷に戻る

じわりじわりと非日常が剥がれ落ちてゆく過程を

あたかも自分自身が体験しているかに思える

リアルなものとして味わえたところです

言うまでもなく(5日間ホテルで…という)経験としてではなく

感覚としてという意味に於いてです


似たような感覚を自ら望んで味わうために

何かしらの経験をしたことは

大なり小なり誰しも過去にあるはずです

朝日で街が徐々に明らむように

非日常から日常へと戻ってゆく感覚のリアル

それはきっと小説の中の疑似体験というよりは

実体験を回想しそこから感じ取る郷愁に寄るところが

大きいのではないでしょうか


加えて渋谷の街に馴染みがある読者にとっては

格段にリアリティが増します

東急百貨店の向かいにあるコンビニ 

センター街にある950円カレーランチバイキングの店

ロッテリアと同じビルにある銀行…など

実在する店や路地や坂が方角も正しく描かれていることが

日常が非日常に変わる意識を鮮明にすると同時に

非日常から日常へと完全に戻るまでの間

わずかばかり存在する曖昧な部分に

"吐き気を催す" 感覚を

理解可能なものにしているからです


本来であれば 

戦争との関係や戦争を遮断した若者が持つ空気の意味など

語られるべき点は僕などが考え得るよりも遥かに深く

物語の中に練り込まれていることでしょう

しかしながら 

そこを敢えて意識しなくとも味わえる濃密な5日間は

非日常へ誘うスイッチとして十分余りあるものです









2009年9月7日月曜日

ASA-CHANG&巡礼

伊勢→浜松→岐阜とゴーイング・マイ・ウェイなツアー(文字通り"巡礼")を続ける彼らが

今宵行きついた先は おなじみクラブメトロ


客席はカーペットに座布団の"メトロ大學"仕様で

今日は聴くモードなのかな? といったたたずまい


舞台も畳敷きの座敷に楽器がゴロゴロ並べられ

そこをブラックライトで照らすという 一風変わった趣を見せていました


客は年齢層やや高め?だったのでしょうか

"巡礼ジャージ"着た気合いの入った客を想像していたせいもあり

場は予想よりも大人しい雰囲気が漂っていました


今日ライブを観てあらためて思ったのですが

ASA-CHANG&巡礼って最近のcorneliusと通ずるものがある気がするんです

音と言葉がほとんど同義で 数学的な音感で音(言葉)遊びをしているところや

(例えばASA-CHANG&巡礼"十二拍子" cornelius"GUM")

無駄を最大限削ぎ落としたミニマルな音に少しコミカルなコラージュを忍ばせるあたり

特にそう思います

ただASA-CHANG&巡礼の場合 民族楽器などで生音をとっかえひっかえ演奏する分

もう少し土や汗のにおいがしたり

歌詞に人としての感情をより意図的に反映させているところはあるのかな?

とも思います


正直に言うと会場はASA-CHANGのキャラクターの意に反して静かだったのですが

(MCでもそのあたりを何度もぼそぼそと・・・)

それでも代表曲"花"や

新作の表題曲"影の無いヒト"は 聴きほれるくらい素晴らしい演奏でした

(特に後者での ASA-CHANGが口にシンバル加えながらの熱演は素晴らしかった!)



アンコールはやや"24時間テレビ"的空気を客席が半ば義務感にかられ醸し出していたのが

とても可笑しかったのですが

(・・・というか ASA-CHANG自身がやらせておいて笑ってるし!)

まあ 御愛嬌ということで









2009年9月6日日曜日

Anna Gaskell

Youtubeを彷徨っていると 

自分が欲している動画にバッタリ出会いハッとさせられることがあります

アップロードした主の思いと閲覧する側の意図は

必ずしも一致するわけではないと思いますが

いずれにせよ 

こういう出会いは嬉しいものです


前々からぼんやりとそう考えることはあったのですが

Anna Gaskellのスライドショーがアップされているのを見付けたときには

喜びと驚きが共存し

いささか興奮しました





アリスにまつわる作品が好きなのは

少女が成長する過程で毒に触れ好奇心を持つモチーフに

イノセントな魅力を感じるからです









2009年9月4日金曜日

川上未映子『ヘヴン』

『群像』を買い逃したため 単行本を予約し初版で読了することが叶いました


主人公の"僕"と"コジマ"という女性の2人のか弱さが強い意味を持つため

ややもすると 危うく善悪という二分の罠に陥りそうになります

しかしながら そこに"百瀬"という強い無意味を持つ人物が登場することにより

"僕"と"コジマ"=意味の強度 と "百瀬"=無意味の強度が融け合い

昇華した先に救いの活路が見出せた気がします


学校における不条理ないじめがテーマとして扱われているのは

恐らく病理や狂気が蔓延する現代社会総体のアナロジーだと思われますが

重要なのはつまり ちょうどいじめる側といじめられる側の住む世界が異なるのと同様

世界に意味を求めるのと無意味とやり過ごすのは世界の切り取り方の違いであり

どちらが善でどちらが悪だとラベルを貼ることがすべてではないという

投げかけにあると思います


読んでいて幾度となく辛くなりました

それでも苦痛を伴いながらそれを"受け入れて"

息つく間もなく最後まで一気に読み進めた先に辿り着いた風景は

美しいものでした


ナチュラルな文体への変化とラストシーンは

恐らく兼ねてからの読者の評価を大きく分かつものです

しかしながら 

文体は変われど著者が持つ感受性の強さを窺わせる描写は瑞々さを増し

僕個人としては違和感がないどころか 人としての喜びを実感した読了後が幸せでした


優しい方なのだと思います










2009年9月3日木曜日

姫路的形SOUND FESTIVAL

Aaa

姫路的形SOUND FESTIVALという野外イベントに行って来ました


Aaaa

会場は海水浴場だったのですが

ピークは過ぎたものの海水浴と潮干狩りのお客さんでそこそこ賑わいを見せていました


Aaaaa

微笑ましい光景を横目に 朝から夕までひたすらDUB漬けの1日


Aaaaaa


Aaaaaaa


Aaaaaaaa

最高音響音響最高!

海を背中に爽やかな潮風の下 過密過ぎずゆったりとフリーで踊れる空間

申し分ない環境でした


さて 今回一番のお目当てはコレです


Aaaaaaaaaa

GOMA&The Jungle Rhythm Section


ドラム椎野恭一さん,パーカッション田鹿健太さん,辻コースケさん

日本最強のリズムセクションと

デジリドゥー・マスターGOMAさんが奏でる一騎当千な精鋭部隊のGROOVEなくして

日本の音楽を語ることなかれ

(と個人的には声を大にして言いたいです!)

ひたすら踊ったり 座ってのんびり聴いたり 寝転がったり 食べたり飲んだり  

海を見つめたり

それまで自由に過ごしていたpeopleたちが 示し合わせたようにステージ前に殺到

みな踊り狂ってました

(決して大げさではなく "狂っていた" という表現が妥当です)





もう楽しくて楽しくて・・・このユニットでの野外は初めて観ましたが激ヤバでした


Aaaaaaaaaaa

そして今回もうひとつの目玉 我らが(地元出身) こだま和文さん

夕暮れ時に響くトランペットの音色 ハマりすぎ!反則!

こちらは一転して 1曲目から"レクイエム"

例の朴訥とした口調で あんな人やこんな人の名前がつぶやかれ・・・

(そういえばフィッシュマンズTシャツ着てる子見かけたなぁ)



夏の締めくくりにふさわしい すばらしい内容でした










2009年8月7日金曜日

レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』

柴田元幸さんの翻訳を読むたび

海外文学を翻訳で読むことは作家の魅力を半減させるという議論が

如何に不毛であるか

海外文学を翻訳で読むことは翻訳者を選ぶことが

如何に大事であるか

この2つにおいて 

海外文学の翻訳を読むことの楽しさを知ることが出来ます


『文藝』2009年春号高橋源一郎さんとの対談の中で 柴田さんは 


「『翻訳』するという行為を視覚化してみると、

ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。

壁の向こうの庭で何かおもしろいことが起きていて、

一人が登って下の子供たちに向って壁の向こうで何が起きているか報告する、

そういうイメージなんです。」

「・・・自分の翻訳はオリジナルに近づける努力は最大限しますけど、

他人の翻訳については原文と合ってる合ってないって

そんな重要じゃないなと思うんです。

下にいる子供たちが(喜べばいいと)それでいいと思ってるんです(笑)」


と おっしゃっています



つまり翻訳者の役割は 

原作の面白さを的確に伝え 読み手それぞれに個々の面白さを見出してもらうこと

というのが柴田さんのお考えで

僕はそれに共感すると同時に 

アメリカ文学というフィールドで柴田さんご自身が率先して実践していることを

とても喜ばしく思います


レベッカ・ブラウンの名作 「私たちがやったこと」では


"安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した"


という カフカ「変身」にひけを取らないほどインパクトが大きな書き出しと

中盤の


"私はあなたと一緒にいることが嬉しく、

あなたに会いたがっている人たちとあなたが 一緒にいたがらないことが嬉しかった"


そして 衝撃的なラストを綴る


"何があったのか私がなぜ言えないのかも、

私たちがやったことを私がなぜうまく言えないのかも"


印象的なこれらのフレーズがどう組み立てられ 物語として成立するに至るか

それは原作の面白さであるのと同じくらい

翻訳者による面白さの引き出し方の手腕にかかっていることを意味します

本作はそれが見事に結実した格好の例です









2009年8月6日木曜日

PARA presents 「Systrum vol.7」

クラブメトロでPARAのライブを観ました


去年一番多くライブを観たミュージシャンは山本精一さんで

1ヵ月あたりに換算すると月1.5回~2回くらいのペースだったのですが

観たいイベントやライブに行くと山本さんが出演しているという 

いわば結果論で 

追っかけをしていたわけではありません

(ここだけの話 クリスマス・イヴもイヴ・イヴも山本さん観てました)

でも PARAは完全に指名買いで観に行ってます

とくにDCPRGが解散してしまった今 

ケミカルで規則正しく反復するグルーヴを出せるバンドは

PARAを置いて他にいません


ライブの余韻でテンションが高く

すっかり前置きが長くなってしまいました


そんなPARAを半年ぶりに観たわけですが 素晴らしかった!

今回はVJがなかったものの カオスな理系グルーヴは冴えわたっていて

PARAをUFOキャッチャーに例えたなら(何でやねん!)

EXPEさんのギターと西さんのシンセがユニゾンするリフが”ボタン1”を押して

正しい方向と位置に導いたあと

千住さんのドラムが"ボタン2"を押して

空中にぶら~んと吊られたあと

ガタンと取出口に放り込まれる感じ(何だそりゃ!?)


こんなアホな表現しか出来ないということは

めちゃめちゃハイレベルな音楽であることの裏返しなわけです

ご容赦願います


PARAを某イベントで観たときの山本さんのMCは

"めくるめく数学の世界を・・・レベル高すぎてお前らにはわからへんやろけどな"

みたいな感じでしたが

(政治の話もしてましたが選挙が近いので伏せます)

今日の山本さんのMCは

オープニング : "BGM止めて"

アンコール : "まだ時間あるから少しやるわ"

でした









2009年8月3日月曜日

リチャード・バック フェレット物語Ⅰ 『海の救助隊』

この本を選ぶと 読書というのはつくづく私的なものだと思います


"空を飛ぶ" ということは 人生におけるあらゆる局面の象徴です

上昇 維持 逃避 そして下降・・・

リチャード・バックの代表作「かもめのジョナサン」は

人生において"空を飛ぶ"ことに価値を見出し 共感出来るか否かによって

読み手に伝わる感動が大きく変わる作品のように思われます

同じバックの"フェレット物語"シリーズも 核になる部分は異ならないのですが

もう少し肩の力を抜いて 絵本を読むように楽しめるあたりは

「かもめのジョナサン」や「イリュージョン」に比べると 

読者を選ばないかも知れません

もちろん どちらがより大きな感動を得られるかは 人それぞれです


僕がこの本を手にしたことと この作品がバックにとってどういう位置づけであるかは

はっきり言って無関係です

端的に言えば フェレットが主人公のフェレットの物語だから興味を持ちました


東京で暮らしているときに 5年ほどフェレットと同居していました

フェレットが亡くなったペットロスを今も若干抱えたままです

フェレットと暮らしていた楽しい時期を知っているため 

フェレットにまつわる物事が視界に入ると 興味がわきます

この本との出会いも例外ではありません


人間の世界と並列に フェレットの世界 動物の世界が描かれていて

後者に理想の世界像を重ねるあたりはバック的な小説ですが

前述した通り 僕にとってそれはさほど関心の対象ではありません

愛嬌あるフェレットが心温まる物語を届けてくれることで十分です

それが重要です


この本を選ぶと 読書というのはつくづく私的なものだと思います










2009年7月24日金曜日

米山俊直 『祇園祭』

米山氏(故人)は文化人類学者で

アフリカの狩猟民族や日本の農村をフィールドワークされたのち

未開や田舎のみを研究対象にすることは果たして

現代の人類学研究にそぐうものか? と自問した結果

都市をフィールドワークの対象にした"都市人類学"を構想しました


その研究成果のひとつとして

1973年の祇園祭を徹底かつ多角的に調べ尽くしたのが本書です


この本が面白いのは まず

調査隊の学生たちを描写した ユルい日記調の記述が随所に書かれているところで

(”××日に○○君がどこそこでファンタを飲んだ” といったユルすぎる情報多数!)

祇園祭に関わる人々と それを調査する学生たちを 同時進行で観察する という

二つの物語が平行線を保ちながら なおかつ

日本最大級の祭事がアカデミックに検証されてゆく醍醐味があります

(とくに序章と終章は小説のようにスラスラ読めます)


読み進めるうちに

神事としての祇園祭

町衆によるハレの日としての祝祭

そして祭を見物する人々のための観光

神事-祝祭-観光という三つが 緩やかにつながりつつも分離する

祭の都市化が浮き彫りになってきます

(例えば観光客は祇園祭を神事として参加してはいないはずです)


そして 都市化の波が担う町衆の後継者不足という問題と

観光客数の増減に運営する体制や経費が踊らされる経済的側面 といった

都市が祭を飲み込んだ行く末のリアルな現状 を目の当たりにし

祇園祭の影の部分にも目を背けず 容赦なく光を当てています


さらに 祇園祭の事例から都市化と人間との関係にまで踏み込み

都市に生活する人間における日常(ケ)と非日常(ハレ)について

一考を促すに至ります

(スーツ着て会社へ出勤するのは日常ではなく祝祭的な非日常にも成り得るように)


つまり 

祇園祭が抱える課題は都市における人間が抱える課題の縮図とも言い得る

といったところでしょうか



余談ですが この1973年の祇園祭を調査した学生たちは

大学の"文化人類学実習"という 一般教養科目のたかだか4単位のために

1年のうち相当な時間を費やしています

アツすぎる!


神事としての祇園祭は7月末日まで続きます

Gion Festivalは密やかに継続中です









2009年7月19日日曜日

石橋英子,Gianni Gebbia,Daniele Camarda

石橋英子さんの新ユニット"AOI" 新作リリース記念ライブへ行って来ました





マルチプレイヤーかつミステリアスな雰囲気が漂う石橋さん

一言で説明するのは到底無理なので割愛しますが




PVの監督は七尾旅人さんです



2:45あたりからの灰野さん めちゃくちゃカッコイイ!
石橋さんもナスノさんも映ってませんが…






今回の作品は道元,一休,宮澤賢治,などからインスパイアされた

アンビエントで日本的情緒溢れる世界に

即興的でアヴァンギャルドなsaxとbassの音が飛び交う

とてもとても不思議な魅力が満載 素敵な仕上がりです!






Gianni Gebbiaのsaxは 時に打楽器のよう,時に尺八のようでした



Daniele Camardaの6弦bassはシンセのような音色やフィードバック・ノイズも奏で 
bassの域を軽く超えていました(2:00頃からのbassソロ必見です!)


素敵な一夜をありがとうございました









2009年7月18日土曜日

「それでも恋するバルセロナ」

相当笑えて 相当泣けて

生きることと恋愛の位置関係を考えさせる

素晴らしい内容でした



ウディ・アレン作品という点を抜きに観ても

相当腹筋痛かったです

"ガキの使い"の大晦日罰ゲームを見るような気分


「ハモンハモン」の"ハムの人"

(ハビエル・バルデム "ニンニクの人" "「ノーカントリー」のおかっぱの人"でも可)

男前でどことなく大木こだま師匠に似ているそのルックスも相まって

赤いシャツに身をまとい顔のドアップを抜かれたあたりから

かつての彼の出演作(でも断然「ハモンハモン」!スペインだし)が頭をチラつき

あり得ないくらい大胆なプレイボーイ的提案を

2人の若きアメリカ美女(スカーレット・ヨハンソン,レベッカ・ホール)に

同時に吹っ掛けるあたりから 笑いをこらえるのに必死

(しかも 結果的にその大胆な提案に2人は乗っかる!)

公園で待ち合わせするシーンでガウディのトカゲの噴水を見ても笑えてくるくらい

感覚がマヒし 笑いのツボがスクリーン上に増殖して脳内を浸食


その後 形は違えど 2人のアメリカ美女たちは

"ハムの人"ことハビエル・バルデムにメロメロになってゆくわけですが

この2人の恋する心理描写が素晴らしかったです

片やオープン 片や秘めて 同時進行し

最初から火の中に飛び込んでいったり

火の用心という札を貼りながら本能的に火遊びを求めていったり


で 

ペネロペ・クルス登場で俄然面白さ100倍!

ペネロペはハビエル・バルデムと切っても切れない関係

2人はスペイン語が母国語なので 2人が会話する部分はスペイン語を

同じ場に居合わせたアメリカ美女に対しては英語を

並行して使い分けるのですが この会話劇がまた何とも言えず絶妙!


ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムは

情熱的で芸術家肌のスペイン人という

ステレオタイプ(もしくは意図的にやや誇張気味)に

描かれていて

彼や彼女と 登場する合理的で物質主義なアメリカ人との対比や

自分探しやアメリカ的理想の幸福を今まさに手に入れんとする女性たちの

恋愛と生きるという位置関係がぐらぐら揺さぶられる様に

観ているこちらまで えぐられているかのような思いがしました


テーマソングとナレーション 

そしてウディ・アレンお得意のおしゃれな街並みが

随所を引き締めてくれ だらだらせず 

息つく間もなくあっという間の1時間半強でした