2013年5月26日日曜日

「ホーリー・モーターズ」

誰しもが人生という舞台の上に立っていることを気付かせる序盤のシーンが、「愛、アムール」と少しかぶったのは偶然だろうか。
演じられるのは特定の人にとってもっとも愛に満ちたものとなるために示されたパーソナルな情熱であり、
世界中のあらゆる人々にひとりでも多く振り向いてもらうためにへつらったものでは決してない。

「オスカー」という映画界をリードする宿命を背負ったような本名を持つ映画監督(と、知ったような書き方をするが、正直に言うと本作を観るまでこの事実は知らなかった。)が「holy」という商業映画の中心地(「hollywood」)に似たタイトルを冠した新作からは、映画に重ね合わせた人生の死のにおいが漂う。
ラストでまるでディズニー映画を実写化したように印象的な形で登場する車たちを表す「motors」という単語も、そういえば「mort」(=死)に似ている。

上述した監督の本名(オスカー)を役名に配したドニ・ラヴァンは、まるで莫大な予算をかけて11人のスターをハリウッドに集結させた「オーシャンズ11」をあざ笑うかのように(根拠はないが、11という数からそう思った)、タイトなスケジュールの中一騎当千であらゆる人々の人生の重要な局面を1日で1人11役こなし、映画の死に抗い、人生に意味を持たせようとする。

しかし、映画と撮る技術は飛躍的に進歩したことが、テクノロジーによって物質的な豊かさを享受してきた人間の精神的な荒廃を同時にあぶり出してしまう。人間の精神が消えてしまった物質としての人間たちの墓場までもが、そうとう笑えない形で登場する。モノを消費し尽くした人間の行きついた先からは、精神的に成熟した超人ではなくモノを物理的に必要としない、モノとの物理的なぬくもりをも捨て自分自身が透明な物質になってしまったような世界が見えてきそうだ。

モノに高い精神性が宿れば、モノは物質として残され人間の有限な生命を超えて永遠に存在し続けることが出来るだろう。だが人間は利便性や効率を追求するあまり、モノを物質的な存在感のない透明なものに進化させ、結果としてモノから人間の精神を消してしまっているのではないか。

そんなかつての人とモノとの間にぬくもりがかろうじてあった頃を悼むように、カイリー・ミノーグの歌声は潰れた百貨店の薄暗く広い空間に美しく響きわたる。

怪物が絡み合うアニメーションのリアルな動きをつくるためにモーション・キャプチャーを録るシーンがとても印象に残った。なぜなら、実際のCGよりも裏方である生身の人間の絡みのほうがなまめかしくエロティックであるという逆転が起きていたからだ。
CGが主であり役者が従であるという、ここでの関係はくつがえりはしない。それでも、役者は映画という人生に自らを刻むように、人間の性的衝動を高い身体能力で描写する。そこに映画という人生の死に人間として尊厳を保ちながら立ち向かってゆく誇りと美しさを強く実感する。

かつては映画を娯楽と呼ぶのは楽観で肯定的なニュアンスが強かった。
だが今日の娯楽化した映画界の状況を果たして手放しで喜べるか。また、そうさせたのは誰か。
カラックスが重い腰を上げて撮った渾身の一作に、映画を追い続けてきたひとりの観客として大きく揺さぶられ、震えた。
やはり自分はシネコンだけの世界では、生きることも死ぬこともできそうにない。