2007年6月18日月曜日

会田誠/山口晃展

学会のついでに
上野で会田誠の絵を観た。
正確に言うと逆かもしれない。

山口晃については
着想は見事でユーモアがあると思うが
あまり好みの絵ではないので
ここでは触れない。

要は 会田目当て ということだ。

「青春と変態」
会田を表すのにこれほど似つかわしい言葉はない。
青春とはエロスの妄想の塊であり
多かれ少なかれ変態の賜物だ。
だが変態とは後ろめたいものではなく
青春という純粋な行為の一部に過ぎない。
会田はこの青春⇔変態の宇宙を
精緻な筆跡で視覚化している。

変態と純粋は視点の置き方の違いに過ぎない。
例えば「滝の絵」という作品。
涼しげな滝のまわりで
スクール水着の女子学生が戯れている。
一見すれば純粋な絵だ。
だが間髪入れず
純粋がエロスを介して変態へと変換される。
股間に食い込んだ水着を手で直す少女
水着を着ずにセーラー服で見学している少女などが
エロス→変態への引き金を引くことになるのだ。

会田と山口のコラボ展の大きな接点は
ユーモアな着想にある。
会田の新作「ヴィトン」「727」。
「ヴィトン」は畑に規則正しく埋まっている
ヴィトンのモノグラムを
田吾作風の日本人が引っこ抜いて
「今年もヴィトンが豊作じゃ~!」と叫ぶ
劇画風タッチの絵だ。
ヴィトン 日本人 といえば
とあるアーティストを連想せずにはいられないわけだが
それを意識したかしないかはともかく
かなり風刺が利いていてインパクトがある。
「727」は東海道新幹線に乗り
名古屋⇔東京間の退屈な風景を眺めたことのある人なら
誰しも目にしたことのある
あの広告看板をモチーフに
淡いタッチでさらりと描いた
ファンタジー調の絵だ。
芸術とは程遠いあの退屈な風景を切り取り
ユーモアを交えて寓話的な世界へ転化させる技巧は
さすがと言わざるを得ない。







2007年6月3日日曜日

Kahimi Karie at 法然院など

借景という言葉の意味が長らく理解できずにいた。

風景を借りるとは いかなる意味ぞ と。

だが今日 ようやくその意味が解った気がした。

思うに借景とは 風景を介して人と繋がる事。

辞書を引けば恐らく 全く別の解釈がされているだろう。

だが僕にとって借景とは この意味でよいのだ。

誰に繋がったかと言えば 自分自身。

ここ数日 頭の中がモヤモヤしていて

自分の居場所が見つからない苦難にあえいでいた。

その答えのひとつが 法然院の緑に満ちた庭園を眺めながら

モリアオガエルの泣き声とともに奏でられる

大友良英 ジム・オルーク そしてカヒミの音楽を聴き

舞い降りてきた。

この場にいること そのものではないか と。

僕が安寧する場は世間から見れば狭いのかもしれない。

だが果てしなく自由に満ちている。

この場で絶命しても悔いはないと思えるくらい

満ち足りた気分に浸る。

この気持ちを分かち合うのは難しいかもしれない。

だが徒に他人に説明するものでもない気がする。


至福のときが終わり 

鹿ケ谷から哲学の道を歩いていると

疎水にほたるが飛び交っていた。

これを目にした瞬間 

先程の借景が確信に変わった。

この景色の素晴らしさに比べれば

大学院で学んでいる事など捨ててもよいと思えた。

本などで学ぶより こうして飛び交うほたるがいる風景を

眺めているほうが よほど人生の糧になる。

そして数日来のモヤモヤから解放された。

僕が求めているもの いちばんほしかったものは

京都で暮らすということだ 間違いない。

今日のような一日は 京都でしか味わえない。

奈良や鎌倉とも違う 何か手ごたえを感じるもの。

そして僕は京都行きを報告したときに言われた

家族と同じくらい僕の事を知り尽くしている人の言葉を

ふと思い出した。

「優先順位を間違えずに がんばって。」

その人の言葉は もはや予言としか思えないくらい

今日の僕の心持を言い当てていた。


この充実感を謳歌したくなり

そのまま三条方面の街へ出てみた。

人混みの中を闊歩したかった。


そういえばお腹がすいたな ということで

久方ぶりにハマムラへ入った。


満席なのに どうやらバイトのひとりが休んだらしく
店内は店員がピリピリして殺気立っていた。

ホールと厨房の話が噛みあわず 怒号が飛ぶ。

右から店員の怒号が聞こえる。

僕はそれを左へ受け流す。

何だかよくわからないが

活気があって 嬉しい気持ちにさせられた。

注文したチャーシュー麺の麺が茹ですぎだったのを

帳消しにしてもよいと思えたくらいだ。


空腹が満たされると 

あらゆる欲が消えたかのような気分になったのを確認して

家路についた。