2009年12月27日日曜日

「パンドラの匣」

ひとことでいえば

冨 永 監 督 ず る い ! ! !


「パビリオン山椒魚」では"シュール"と呼ぶ余地が結構あったトミナガworld
("シュール"って100%理解してないけど面白いときに手っ取り早く使える便利な言葉)

あのお姉さん(キタキマユ)が普段流暢にしゃべれないのに

テレビの撮影が入った時はベラベラしゃべってたわかりやすーいずるさを

全体の60~70%くらいシーンに忍ばせているわかりやすさ!


舞台は「健康道場」と呼ばれる結核の男性を療養する施設での集団生活なのですが

患者と看護婦(※当時の呼称を尊重)ひとりひとりにあだ名がつけられていて

変なあだ名と配役とキャラクターが絶妙で素晴らしい!特に脇役!!

冨永映画に欠かせない変な日本語っぷりも健在です


驚くべきは

その変なあだ名や変な日本語は原作のまま!

あたかも監督が面白おかしく脚色したものに見えるのですが

原作の小説と照らし合わせてみるとちゃんと書かれてるんです

でも もちろんそれだけで終わるほど野暮ではなくて

場面が変わるたびにスクリーンに向かってツッコミたくなることだらけ!で

イライラッ イライラッ させられました
( 褒め言葉 です)


ずるいといえば窪塚(洋介)くんの露出具合!!

主人公「ひばり」(染谷将太)や看護婦の「竹さん」(川上未映子)「マア坊」(仲 里依紗)に比べ

出番は少なめなのですが

出た時の存在感と "とある仕草" とにかくずるい!

窪塚くんは復帰後の作品もDVDでちょろちょろ観てはいたのですが

個人的には久々のハマり役に恵まれた気がしました


「マア坊」なのか?本人なのか?どこまで演技をつけたのか妙に気になる

仲 里依紗ちゃんの可愛らしさも かなり目立ってました


川上さんで印象に残ったのは

菊地成孔さんが奏でるテーマに乗せて登場するオープニングとエンディングです

劇中はダメだったという意味では断じてなく
(むしろ逆で しっかりと女優女優してました)

オープニングとエンディング これものすごーく重要なんです!

オープニングでテーマ音楽に耳を傾けて

"あーこのままずーっと続いてくれたら気持ちいいなあー"と浸ってると

プツッと途切れて本編が始まり

エンディングで同じテーマが流れると

"あれっ?ずっと夢でも見てた??" という錯覚に陥ります

この作用は物語にユートピアっぽさを持たせる上でかなり効果的でした


菊地成孔さんといえば この方の音楽がまたずるい!

「ひばり」と「マア坊」が2人きりになるシーンで流れる音楽が

"これ絶対に「パビリオン山椒魚」でも使われてたよね?"という音でした

それがどうしても気になって気になって仕方なかったのですが

鑑賞後に読んだパンフの冨永×菊地対談にその答えが掲載されていました

菊地さんが "とある意図"のもとに「パビリオン~」とまったく同じ音楽を付けたようです

だてに付き合いが短くないお2人の間柄!と感心してしまいました


でもいちばんずるい!のは

何だかんだいってラストに向けてちゃんとシリアスにまとまってゆくところ

かもしれないです


パンフで知ったのですが 

劇中の看護婦の制服をシアタープロダクツがデザインしていて

冨永監督は"普段洋服をデザインする感覚で制服をデザインして欲しい"という

依頼の仕方をされたそうです

その意図が結構面白くて 

何でも当時の時代考証に合わせると制服がものすごーくダサいらしく

その制服を女優さんに着せて演技してもらっても

女優さんのテンションが下がりいい絵が撮れない!

と考えたそうです

この発想って冨永監督らしいなあ と思った次第です


"意外と原作に忠実なのにトミナガworld全開!"という構図は

おそらく原作選びのプロセスから生まれたものだと思います

てっきり太宰生誕100年に合わせ監督のもとにオファーがきたのかと思いきや

まるっきり逆で

太宰生誕100年のタイミングなら映画化が実現しやすいだろう と

監督がもともとあたためていたネタだったようです

何でも「パビリオン山椒魚」で井伏鱒二について資料を集めている際に

たまたま太宰のこの作品を知り興味を持ったのだとか


"原作のあの部分が描かれてなくて物足りない"

"原作の世界観をちゃんと再現出来ていない"

といった見方をする人にとってのこの映画に対する評価は僕にはわかりませんが

文学・映画・音楽がバランス良く調和がとれてるという意味では優れた映画だなあ

と 思いました






















2009年12月21日月曜日

「Inglorious Bastards」

タランティーノがナチスを題材に扱った最大の目的は

「民族の祭典」などで映画(芸術)と政治の関係について物議をかもした

リーフェンシュタール

ナチスの亡霊(より具体的に言えばゲッベルス)から解放することで

映画(あるいは芸術)は何者からも縛られない自由で独立したものであるということを

高らかに宣言したかったのではないでしょうか

その証拠にこの映画がバスターズとレジスタンスによるナチス打倒という勧善懲悪が

メインテーマではないことは

"第一章"におけるハンス大佐(クリストフ・ヴァルツ)と

"第二章"におけるレイン中尉(ブラッド・ピット)が

案外似たり寄ったりな部分を持っていることを最初に見せつけておく構成に

ほのめかされていて

(とはいえ復讐劇に勝ち負けは当然つきものでそれは"第五章"できっちりと描かれています)

こういう言い方は語弊があるかもしれませんが

善悪を超えたさらに高いレベルを到達点に置いている意気込みが

ひしひしと伝わってきました

(・・・なのにエンターテイメントというところがこれがまたすごい!)


ナチスの没落やレジスタンスによるナチへの抵抗というあらゆる作品を観てきましたが

レジスタンスについては"多勢に無勢"ながら果敢に正義を貫くヒロイックなもの

ナチスについては"盗人にも三分の理"的なもの

いずれも小さなカタルシスと大きなモヤモヤが残るものが多かったのが正直な感想です

そこをタランティーノはいわばヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」に

マフィアとウエスタンを乱入させ

スクリーンに穴があくくらいマシンガンとライフルで撃ちまくったような爽快感があり

よくぞやってくれた!という思いで一杯です

これはフィクションがノンフィクションに勝利した貴重な映画だと思います


携帯のアンテナが一本もたたない薄暗い地下室のような劇場ではなく

壁一枚隔てたすぐ隣のスクリーンで子供向けアニメ映画が流れる明るいシネコンで

こんなマニアックな映画を豪華なキャストと莫大な制作費を掛けて作ることが許されるのは

マニアックさを脳みその中でエンターテイメントに再構築することが出来る

タランティーノの才能以外の何者でもないでしょう

同時にこのタランティーノの脳内エンターテイメントは

尋常ではない映画知識を蓄えた部類の映画オタクかつ映画好きであるタランティーノが

映画オタク・映画好きとして面白いと思った妄想を具体的に形にしたものに

他ならないわけですから

結局のところ映画好きが100%面白いと思ったものを外さず映画として撮るという

ごく当たり前のことながら実は意外と実現されていないことと真剣に向き合い

結果として実を結んだ

ハリウッドの宝だと思います

鑑賞後この人がハリウッド映画をひとりで背負っているのでは?

と思えてしまったくらい

タランティーノはほんとに心底映画好きで映画を愛してるんだなと痛感し

甚く感動させられました


劇中でデヴィッド・ボウイによる映画「キャット・ピープル」の主題歌

"Cat People (Putting Out Fire)" が印象的な場面で使用されていますが

熱狂的なボウイ信者から"イタロ・ディスコ?"と苦汁を飲まされた不遇な時期の曲が

これほど格好良く響くとは夢にも思わず大いに改心させられる思いがしました

そう聞こえるようにお膳立てしたタランティーノの音楽センスに脱帽です





ナチスの亡霊を退散させる映画の重要な場面で使われている

"Cat People (Putting Out Fire)" が

"シン・ホワイト・デューク"というキャラクターを演じたことがナチスとの関連性を疑われ

"ベルリン三部作" という内省的な方向に走り

"スケアリー・モンスターズ"を経て再びまぶしいスポット・ライトを浴びるちょうど過渡期に

デヴィッド・ボウイが歌った曲であるというのは

何とも出来過ぎた話ですね














2009年12月8日火曜日

Anna Karina「La Religieuse」







ジャック・リヴェットの演出的意図を感じます。


この作品を観ると、

自由とは、

他の誰でもなく自分自身が"自由だ"と実感したときのみ獲得できるものではないか?

と考えてしまいます。

ただ同時に、

自分がいつどんなときに自由を実感することが出来るか?を予測することの難しさを、

思い知らされる気がしてしまうのも事実です。

そこにこの作品の魅力を感じます。


アンナ・カリーナが激しく情熱をぶつけた演技で、

ゴダール映画とは違う顔をのぞかせてくれている点も、

ファンとしてはかなり見どころです。