2008年2月26日火曜日

ビョークin大阪城ホール

知らない曲も歌っていました。

歌詞は外国語なので意味はよくわかりません。

でも そんな事はちっぽけなものにすぎませんでした。

彼女は地球を背負って歌っていました。

彼女は宇宙に向けて歌っていました。

「hyperballad」からラストの曲にかけてのバックトラック

テクノバリバリで脳を揺さぶられました。


ビョークというとてつもない大きな存在を目の当たりにして

自分の小ささを実感するとともに

そんな小さな自分にも生きている実感と勇気を与えてくれた

人生において意義深い2時間でした。












2008年2月19日火曜日

「グミ チョコレート パイン」

この映画を観ようと映画館に足を運ぶ時点で負けているのだ。

小説「グミ チョコレート パイン」を
「月刊カドカワ」でリアルタイムで読んでいた時は
「何だよオーケン 青臭い青春小説書きやがって」と
小説の中身が過去の自分と少なからずかぶる
同じ穴のムジナ(というより小説の中身よりも暗いものだった)
であることを棚に上げて
もうそんな時期は卒業したのさとあぐらをかいて
余裕をかましていた。

ヒロイン美甘子が
「人生とはグミ チョコレート パインみたいなもの。焦らない?」
(ジャンケンをして グーで勝ったらグミだから2歩・・・という具合に
 チョキで勝った時が一番多く前に進める遊びのこと。
 ちなみに僕の地元では「グリコ チョコレート パイナップル」だった)
と青春時代の焦燥感を表現するのだが
当時の僕には「チョコレート」とまでは言わないまでも
少なくとも「グミ」や「パイン」という意識は更々無かったと思う。

そう 僕がもし今の時点でもし人生を「チョコレート」だと思っていたなら
そもそもこの映画を正規の料金払って映画館で観たりはしていないはずだ。
にもかかわらず上映時間をチェックして足元悪い中映画館へ向かったのは
良くても「パイン」の下ややもすると「グミ」である自分を
カミングアウトしているようなものだ。
「チョコレート」の立場からの高みの見物あるいは単なるノスタルジーなら
自宅でDVDレンタルで事足りる話だったと思う。
にもかかわらず 脚本・監督 ケラリーノ・サンドロヴィッチ(ケラ)
原作 大槻ケンヂ 主題歌 電気グルーヴ という
絵にかいたようなナゴムしばりの罠に安々と身を委ねる観客は
みな人生に負けているのだ。

しかもケラの用意した仕置きはさらに残酷だった。
舞台は2007年で主人公の賢三は38歳。
旧友たちがそれなりに自分の立場や夢を確立している中
賢三は会社をクビになり実家に帰省。
父は痴呆し 母は心配を通り越して半ばあきれ気味。
美甘子が病気を苦に自殺し
賢三の実家には美甘子から謎の手紙が届いていた。
賢三はこの手紙の謎を紐解くために
当時に思いをはせて記憶をたどるのだが
過去の自分においても現在の自分においても
全く救いの要素は無い。
ただただ妄想と現実とのはざまにリアルな日常があるだけだ。
美甘子との思い出も38年間のうちのひとかけらにすぎない。
要するに 何のカタルシスもなく 
救いようのない現実にうちひしがれる賢三がいるだけなのだ。

この映画を観て人生の糧にしようとか
青臭い青春を美化しようなんてたくらむだけ無駄であって
肯定も否定もない問いかけを受け止めて
自己の現状認識を把握する場を与えてもらっているに過ぎない。
そしてこの映画に淡い幻想を抱いていた過半数の観客は
うつむき加減に映画館を足早に去るように仕向けられているのだ。

入れ替え上映で「人のセックスを笑うな」を待つ長蛇の列が
嫌味なくらいにいきいきとして見えた。