2006年8月14日月曜日

「ゆれる」~西川美和による全てを抉る恐怖の映画~

是枝裕和はとんでもない魔物を
映画界に送り込んでしまった。

今年は恐ろしい日本映画の問題作が
(今日現在で)二本も世に生み出された事になる。
花村萬月原作 大森立嗣監督の
ゲルマニウムの夜」と
脚本・監督 西川美和による
ゆれる」。
この二作品がどう恐ろしいのかといえば
それは抉る映画だからだ。
但し 抉る方法と深さに於いて両作には違いがある。
「ゲルマニウムの夜」が暴力的で主にビジュアル面で
人間の欲望を抉り出していたのに対して
「ゆれる」は登場人物の心の内面性を抉っている。
そして家族関係の中に潜む妬みや憎悪を
追い込まれるくらいに突き詰めて抉り捲くる
西川美和の方がより深い。

「ゆれる」の怖さは
日本的共同体の最小単位である家族の欺瞞を
見透かしているところだ。
都会に憧れて田舎を捨て東京で写真家になった弟が
母の一周忌に私服で遅刻して到着する。
宴の席でそんな弟を罵倒する父を兄が宥める。
兄は田舎で欲の無い人生を歩んできた
真面目だけが取り柄の実直な男だ。
弟が東京での暮らしぶりを隣の席の男性に
すれた感じで調子よく話す一方
兄は自分の足元に酒が零れているのを知ってか
知らずか何事も無いように宴席に酒を注いで回る。
弟はそんな兄が嫌いではない。
寧ろ嫌いな田舎との唯一と言って良い接点だった。
だが相槌を打ちながらも兄の言動を醒めた目で見ている。
もっとも田舎臭い もっとも家族の欺瞞的部分を
誇れる兄にこそ一番感じていたからである。
ただ単にこの作品を見て登場人物の台詞だけ追っていても
気づかないかも知れない。
だが単なる日常会話にすぎないような場面の中から
西川は鋭いカメラワークで人物の心象風景を切り取り
場面場面において人物の本音の部分を
冷酷に描写している。
息抜きする場面が全くなく 身を乗り出して
画面に噛り付いてしまった。
これには映画パンフの中で角田光代も触れている。
(「だから私たちは、彼らのちょっとした動き、回想としての光景を、
 瞬きするのももどかしいほど見つめるしかない。そうして彼らの
 気持ちを『読む』しかない。)

とある家族とその周りに起こる事件を設定としているが
西川はそこから共同体的日本社会を挑発しているようにも思える。
長編二作目にして白眉となった西川美和から目が離せない。