2009年8月7日金曜日

レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』

柴田元幸さんの翻訳を読むたび

海外文学を翻訳で読むことは作家の魅力を半減させるという議論が

如何に不毛であるか

海外文学を翻訳で読むことは翻訳者を選ぶことが

如何に大事であるか

この2つにおいて 

海外文学の翻訳を読むことの楽しさを知ることが出来ます


『文藝』2009年春号高橋源一郎さんとの対談の中で 柴田さんは 


「『翻訳』するという行為を視覚化してみると、

ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。

壁の向こうの庭で何かおもしろいことが起きていて、

一人が登って下の子供たちに向って壁の向こうで何が起きているか報告する、

そういうイメージなんです。」

「・・・自分の翻訳はオリジナルに近づける努力は最大限しますけど、

他人の翻訳については原文と合ってる合ってないって

そんな重要じゃないなと思うんです。

下にいる子供たちが(喜べばいいと)それでいいと思ってるんです(笑)」


と おっしゃっています



つまり翻訳者の役割は 

原作の面白さを的確に伝え 読み手それぞれに個々の面白さを見出してもらうこと

というのが柴田さんのお考えで

僕はそれに共感すると同時に 

アメリカ文学というフィールドで柴田さんご自身が率先して実践していることを

とても喜ばしく思います


レベッカ・ブラウンの名作 「私たちがやったこと」では


"安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した"


という カフカ「変身」にひけを取らないほどインパクトが大きな書き出しと

中盤の


"私はあなたと一緒にいることが嬉しく、

あなたに会いたがっている人たちとあなたが 一緒にいたがらないことが嬉しかった"


そして 衝撃的なラストを綴る


"何があったのか私がなぜ言えないのかも、

私たちがやったことを私がなぜうまく言えないのかも"


印象的なこれらのフレーズがどう組み立てられ 物語として成立するに至るか

それは原作の面白さであるのと同じくらい

翻訳者による面白さの引き出し方の手腕にかかっていることを意味します

本作はそれが見事に結実した格好の例です









2009年8月6日木曜日

PARA presents 「Systrum vol.7」

クラブメトロでPARAのライブを観ました


去年一番多くライブを観たミュージシャンは山本精一さんで

1ヵ月あたりに換算すると月1.5回~2回くらいのペースだったのですが

観たいイベントやライブに行くと山本さんが出演しているという 

いわば結果論で 

追っかけをしていたわけではありません

(ここだけの話 クリスマス・イヴもイヴ・イヴも山本さん観てました)

でも PARAは完全に指名買いで観に行ってます

とくにDCPRGが解散してしまった今 

ケミカルで規則正しく反復するグルーヴを出せるバンドは

PARAを置いて他にいません


ライブの余韻でテンションが高く

すっかり前置きが長くなってしまいました


そんなPARAを半年ぶりに観たわけですが 素晴らしかった!

今回はVJがなかったものの カオスな理系グルーヴは冴えわたっていて

PARAをUFOキャッチャーに例えたなら(何でやねん!)

EXPEさんのギターと西さんのシンセがユニゾンするリフが”ボタン1”を押して

正しい方向と位置に導いたあと

千住さんのドラムが"ボタン2"を押して

空中にぶら~んと吊られたあと

ガタンと取出口に放り込まれる感じ(何だそりゃ!?)


こんなアホな表現しか出来ないということは

めちゃめちゃハイレベルな音楽であることの裏返しなわけです

ご容赦願います


PARAを某イベントで観たときの山本さんのMCは

"めくるめく数学の世界を・・・レベル高すぎてお前らにはわからへんやろけどな"

みたいな感じでしたが

(政治の話もしてましたが選挙が近いので伏せます)

今日の山本さんのMCは

オープニング : "BGM止めて"

アンコール : "まだ時間あるから少しやるわ"

でした









2009年8月3日月曜日

リチャード・バック フェレット物語Ⅰ 『海の救助隊』

この本を選ぶと 読書というのはつくづく私的なものだと思います


"空を飛ぶ" ということは 人生におけるあらゆる局面の象徴です

上昇 維持 逃避 そして下降・・・

リチャード・バックの代表作「かもめのジョナサン」は

人生において"空を飛ぶ"ことに価値を見出し 共感出来るか否かによって

読み手に伝わる感動が大きく変わる作品のように思われます

同じバックの"フェレット物語"シリーズも 核になる部分は異ならないのですが

もう少し肩の力を抜いて 絵本を読むように楽しめるあたりは

「かもめのジョナサン」や「イリュージョン」に比べると 

読者を選ばないかも知れません

もちろん どちらがより大きな感動を得られるかは 人それぞれです


僕がこの本を手にしたことと この作品がバックにとってどういう位置づけであるかは

はっきり言って無関係です

端的に言えば フェレットが主人公のフェレットの物語だから興味を持ちました


東京で暮らしているときに 5年ほどフェレットと同居していました

フェレットが亡くなったペットロスを今も若干抱えたままです

フェレットと暮らしていた楽しい時期を知っているため 

フェレットにまつわる物事が視界に入ると 興味がわきます

この本との出会いも例外ではありません


人間の世界と並列に フェレットの世界 動物の世界が描かれていて

後者に理想の世界像を重ねるあたりはバック的な小説ですが

前述した通り 僕にとってそれはさほど関心の対象ではありません

愛嬌あるフェレットが心温まる物語を届けてくれることで十分です

それが重要です


この本を選ぶと 読書というのはつくづく私的なものだと思います