2006年12月27日水曜日

「サムサッカー」

マイク・ミルズは
最も尊敬するクリエイターの一人だ。
x-girlの広告を見たとき
もはや広告とポップ・アートに
境界線は無いと思うくらい
衝撃を受けた。
その後も彼のアート・ワークを
追いかけ続け
後に一緒に仕事をさせてもらうことになった
これまた大好きなデザイン集団の
PAT DETECTIVEが
最も尊敬するグラフィック・デザイナーに
マイク・ミルズの名を挙げたときは
とても嬉しかったのを覚えている。

だが いくつかの短編映像は手掛けたものの
映画は初監督ということで
観るまでは正直不安だった。
観てガッカリしたらどうしよう・・・と。

予想外にも まっとうな映画。
映像にこだわるというよりも
むしろストーリー中心の仕事をしていた。

前半は引っ込み思案な主人公が
精神薬で酩酊して饒舌になる様を
コミカルに描いていたが
見所は後半で
主人公がマリファナを常飲し
家族がバランスを崩すように
バラバラになってしまう状態から
徐々に結束を深めていく筋書きに
惹き込まれていった。
主人公の一番の理解者である
キアヌ・リーブス演じる歯科医が
ストーリー展開を暗示する役目を
果たしているのも見所だった。

主人公は指をくわえる癖があるのだが
そういえば自分の幼い頃の癖は
いつの間に無くなったのだろうと
ふと思った。

2006年12月23日土曜日

「鉄コン筋クリート」

かなり良かった。

原作の繊細でシュールな感覚を
見事に映像化していた。
しかも 脚本 監督 外人。
信ジラレナイ。

宝町が「イノセンス」とスタジオジブリを
足して2で割ったようなリアルさだった。
(「イノセンス」はあまり面白いと思わなかったが)
色彩設計も好み。

最後のクロとイタチの葛藤する場面は
何か不気味で しかも長かった。
禁断症状ってこんな感じなのかも。

シロ かわいかった。
蒼井優は今年頑張ってるなぁ。

松本大洋知らなくても
アジカンの主題歌目当てでも
多分ハズレた気にはならないと思う。

誰にでもオススメ出来る映画。
堅い。

2006年12月19日火曜日

「犬神家の一族」

がっかりした。

リメイクものはハズレ というジンクスには
概ね同意する僕なのだが
今回は市川昆本人によるセルフカバーなので
ちょっとだけ期待していた。
「黒い十人の女」に代表される
往年のポップな演出はどこにも見られず
キャラ立てからストーリー
ましてや 誰が犯人であるかまでも
全てがわかりやすい
極々大衆的な映画に成り下がっていたと思った。

もちろん旧作を観ているから犯人は知っていた。
だが犯人がわかっていても
脚本と演出の妙によって
スリリングな作品に仕立てることが可能なのは
例えば「デスノート 後編」を例に挙げれば
明らかだ。

あと 金田一は思い切って別の若手俳優を
起用すべきではなかったか?
石坂浩二を起用することで
ある程度旧作のトレースをする事には
成功してはいたが
やはり若い頃のようなキレが
演技からは感じられなかった。
典型的な例が ゲタを履いて走るシーンが
スピードが遅くて鈍臭かった。
あとセリフがワンテンポ遅い気がした。

もともと古いものにおどろおどろしさを感じる
タイプの人間だから
旧作の方が面白く見えたのかも知れない。

唯一良かったのは 大野雄二の音楽だけかな。

2006年11月30日木曜日

「ストロベリーショートケイクス」

書こうかどうかずっと躊躇していたが
GREEで魚喃キリココミュの管理人を
やらせていただいている立場上
逃げずに書かざるを得ない。

観終わって思った感想は
まず原作「strawberry shortcakes」と
映画「ストロベリーショートケイクス」は
似てはいるが別の作品であるということ。

そして正直に告白せねばならない事は
「男と女はやはり別の生き物だった」
という確信だった。
その確信は塔子とちひろが別れ(るはず)
だったシーンで塔子が泣いていたが
僕には搭子の涙の重みが解らなかった。
いや男女の違いではないのかもしれない。
昔から女の友情には疎いという自覚があるし
監督の矢崎仁司は男だ。
いずれにせよ あの涙を共感できなかったのは
とても悔しかった。
自分の生き方にどこか誤りがあったのだろうか。

ちひろ役は中越典子だが
僕はこの女優をずっと
居場所の無い 宙ぶらりんな女優だな
と勝手に思っていた。
私見だが どのドラマを見ても
どの役でもしっくり来ない気がしてならなかった。
だからちひろ役に中越典子をキャスティングしたと
聞いた時には やられたと思った。
ようやく彼女の居場所が与えられた気がしたからだ。
なぜなら ちひろという女性そのものが
まさに宙ぶらりんで居場所の無い女性だからだ。
自分がもし女に生まれてちひろのような存在だったら
さぞかしがっかりすることだろう。
でも誰しもがちひろ的平凡さを少なからず抱えて
生きていることもまた事実。
だから人はちひろ的弱さに共感を覚えるのだ。

塔子はちひろのカウンターパート的存在で
神に選ばれて生まれてきた女性だ。
しかし天才は常に孤独であり
見えない敵 あるいは自分自身と
常に格闘している。
また天は二物を与えないらしく
実は一番失恋に敏感であったりもする。
ちひろの日記を鼻で笑いながら読み
自慰に耽る様は実に痛々しい。
また監督・脚本家の意図かどうか不明だが
やたらとTバックの露出を強調したカメラワークに
塔子の内なる女性性を感じた。
余談だが塔子役の岩瀬搭子(と敢えて呼ぶ)の
大胆な演技は予想していなかっただけに驚いた。
あと 塔子の制作物という設定で
高木紗恵子のイラストが多数使用されていたのが
個人的に嬉しかった。

露出といえば 秋代演じる中村優子は
脱がせたら今一番人を惹きつける女優ではないか。
「血と骨」での熱演も記憶に新しい彼女の裸体は
秋代においても嘘偽りの無い美しさだった。
彼女の凄いところは 好きな人の前と
その他大勢の前とでは同じ裸体でも輝きが違った。
片思いの菊池と成就した一夜限りのそれは
デリヘルで客を相手にするものとは全く別の
輝きを放っていた。
秋代の菊池に対する一途な思いを見て
ここでもまた自問自答。
共感は出来るが 果たしてここまで深く
人を愛した事が自分にはあっただろうか・・・

秋代の働くデリヘルで受付のバイトをしている里子。
彼女は恋に恋するような乙女キャラで
他の3人よりも幾分キャラクターがつかみやすい。
(実際にいそう という意味では必ずしもないが)
映画でも彼女が作品全体のバランスを保っていた。
この絶妙なバランス感覚は
池脇千鶴の演技力に寄与するところが大きい。
「ジョゼと虎と魚たち」で見せた
老獪で年齢不肖な女性とは打って変わって
今回は見ていて爽快な気分にさせる
エネルギッシュな存在感を放っていた。

そしてラストシーンで
とってつけたように出て来る
イチゴのショートケーキ。
このニュアンスにも女性的なものを感じ
上手く入り込めなかった。

映画を観て
これほどまで敗北感を感じたのは
生まれて初めてだ。

2006年8月14日月曜日

「ゆれる」~西川美和による全てを抉る恐怖の映画~

是枝裕和はとんでもない魔物を
映画界に送り込んでしまった。

今年は恐ろしい日本映画の問題作が
(今日現在で)二本も世に生み出された事になる。
花村萬月原作 大森立嗣監督の
ゲルマニウムの夜」と
脚本・監督 西川美和による
ゆれる」。
この二作品がどう恐ろしいのかといえば
それは抉る映画だからだ。
但し 抉る方法と深さに於いて両作には違いがある。
「ゲルマニウムの夜」が暴力的で主にビジュアル面で
人間の欲望を抉り出していたのに対して
「ゆれる」は登場人物の心の内面性を抉っている。
そして家族関係の中に潜む妬みや憎悪を
追い込まれるくらいに突き詰めて抉り捲くる
西川美和の方がより深い。

「ゆれる」の怖さは
日本的共同体の最小単位である家族の欺瞞を
見透かしているところだ。
都会に憧れて田舎を捨て東京で写真家になった弟が
母の一周忌に私服で遅刻して到着する。
宴の席でそんな弟を罵倒する父を兄が宥める。
兄は田舎で欲の無い人生を歩んできた
真面目だけが取り柄の実直な男だ。
弟が東京での暮らしぶりを隣の席の男性に
すれた感じで調子よく話す一方
兄は自分の足元に酒が零れているのを知ってか
知らずか何事も無いように宴席に酒を注いで回る。
弟はそんな兄が嫌いではない。
寧ろ嫌いな田舎との唯一と言って良い接点だった。
だが相槌を打ちながらも兄の言動を醒めた目で見ている。
もっとも田舎臭い もっとも家族の欺瞞的部分を
誇れる兄にこそ一番感じていたからである。
ただ単にこの作品を見て登場人物の台詞だけ追っていても
気づかないかも知れない。
だが単なる日常会話にすぎないような場面の中から
西川は鋭いカメラワークで人物の心象風景を切り取り
場面場面において人物の本音の部分を
冷酷に描写している。
息抜きする場面が全くなく 身を乗り出して
画面に噛り付いてしまった。
これには映画パンフの中で角田光代も触れている。
(「だから私たちは、彼らのちょっとした動き、回想としての光景を、
 瞬きするのももどかしいほど見つめるしかない。そうして彼らの
 気持ちを『読む』しかない。)

とある家族とその周りに起こる事件を設定としているが
西川はそこから共同体的日本社会を挑発しているようにも思える。
長編二作目にして白眉となった西川美和から目が離せない。

2006年6月10日土曜日

「初恋」

「一生大人になりたくない」
心の底からそう思ってた

一生に一度限りの過ち
一生に一度限りの恋
それは 激しく雨の降る日の出来事

ベンチに座り 手を握り締めたのも雨の日
雨は恋愛 雨は時間 雨は思い出

「永遠などないことはわかっていた」
でも雨はそんな絶望から救ってくれる神
雨が降る限り 「初恋」は永遠に続く






2006年3月29日水曜日

「空中庭園」

秘密のない家庭など虚構にすぎない。
もし仮に「秘密のない家庭にしよう」というルールが
存在する家庭だったとすれば
それは最初に言い出した者が
家庭を完璧にコントロールするための罠だ。

言い換えると 
家庭を自らの思うがままにしようという
設計主義自体が秘密であり 
当の本人が自らルール違反者だ。

家庭を思うがままにしたいという欲求は
幼少期における愛情の受容欠如に起因する。
「あの子なんて産まなきゃよかった」
などという 
肉声だか幻聴だか判らない声が耳をよぎる。

愛情欠如はルサンチマンを膨張させ
完璧に計画し尽された愛情に満ち溢れた
王国建設を決意させ 実行へと促す。

王国の主は
愛情=秘密のない間柄 という
不文律で国を統治する。

だが自らが法を犯しているのと同様に
国民たる家族もそれぞれに秘密を抱えながら 
国王のご機嫌をとっている。

主はそれに敏感に気付き
秘密を抱える家族への憎悪の念が
日に日に強くなってゆく。

主はついに発狂してしまう。
空からは血の雨が土砂降りだ。
すると 幼き日に親から受けたらしき
愛情のワン・シーンが
突然フラッシュバックする。

愛情を注ぐ親と
愛情に飢えた子。
異なる位相に居たが為
愛情がねじれの位置に存在しただけなのだ。

絶叫・・・

主は
「秘密のない家庭」の虚構に
ようやく気付く。

家族は
本人が忘れてしまっている
誕生日プレゼントを買いに
内緒で寄り道をし
通勤バスで落ち合う。

今からでも遅くはない。
本当の家庭を作ろう。