2010年7月17日土曜日

束芋 断面の世代

祇園祭の見どころが頂点に達した頃をさえぎるかのように、京都は大雨にさらされた。

鴨川の水はコーヒー色に濁り、水攻めにあった城のような金閣寺の有様に顔が青ざめた。

古都の豪雨というニュースは、こと金閣寺に関しては視覚的インパクトが凄かったためか、

たちまちネット上に伝播していった。



とても奇妙な感覚を覚えた。

この金閣寺の写真、笑いの種とまでは言わないまでも、

どう考えても"ネタ"として使われていたからだ。

当事者にとっては災害でも、傍観者にとっては対岸の火事、といったところだろうか。



別にモラルを振りかざし とがめたいわけではない。

直接的に災害にあった立場でもないわけだし、

逆の立場であれば同じ輪の中に入っていたかもしれないことを完全に否定出来る自信もない。

同じものを視覚でとらえても、その結んだ像からもたらされる感情の振り幅の大きさが、

奇妙に感じられただけだ。





もやもやした思いを昇華しきれないままに見た「束芋 断面の世代」展は、

ここ数日研ぎ澄まされていた神経の部分に粗塩を塗られるような強烈なインパクトをもたらしてくれた。



普段暮らしている 文字通り日常の世界には「断面」が存在していて、

そこには非日常へと落下する空間が口を広げている。

その深い深い「断面」へ落ちてゆく非日常の像は脳内で自由に結ばれ秩序立てられるわけだが、

その秩序は個人の脳内における秩序なのであって、 

他者から見れば奇形でありシュールなものになりうる。

ただ、他者から見て混沌としたその他者にとっての秩序の中にも共有しうる共通項があり、

その共通項によって浮かび上がってきた新たな像が他者の脳内にも広がってゆく。

こうして共有し伝播していく中、個として共感し得る部分も齟齬をきたす部分も出て来る。

しかしながら、共感するにせよしないにせよ、個と個がつながってゆくことだけは確かである。





違う日に違う思いを抱え作品を観ていたならば、全く違うことを考えていたかもしれない。















2010年7月16日金曜日

森山大道 「NORTHERN」





心斎橋コム・デ・ギャルソンSIXで 森山大道写真展を見てきました



"グローバリゼーションにも流され得ない濃い毒"を讃えた言葉が白壁に記され

「カド」という名の角にある居酒屋かスナックが角に配置された

昭和の北海道を切り取ったモノクロの写真の数々が並んでいました



川久保玲は白と黒のみで彩られた

直接経験していないながらもどこか忘れ難い強烈なノスタルジーが漂う空間の中央に

鉄の柵を立てていて

それは普遍的な日本の原風景を閉じ込める試みであるのと同時に

流されないもの 流され得ないものを地に足を降ろした強い意思表示かもしれない

と思いました