2008年1月19日土曜日

鏑木清方展

午前中 時間があったので

ジェイアール京都伊勢丹にて開催中の

鏑木清方展へ。


彼の存在はどちらかというと

泉鏡花を通して知った感があるので

文芸雑誌の挿絵だけではなく

彼を一流の日本画家へとのし上げた

美人画を今回初めて観る事が出来たのは

個人的に相当の収穫だった。


清方を語るにはまず「朝涼」に触れないわけには

いけないわけだが

画集等で見る以上に実際の作品は相当素晴らしい。

清方の美人画といえば 浮世絵の系譜を継ぐ

切れ長の目をした女性という印象が強いが

明け方に田園を歩く実娘を描いたとされる本作は

写実的に描かれていて趣が異なる。

色白で端整な顔

編みこみの髪を片方の手でつまみ 

他方の手の指先で毛先を触る仕草

草履を履いた足の爪先と歩幅

これら少女のたたずまいが

薄ぼんやりとした朝焼けの田園風景と見事に調和し

文字通り「涼」を感じさせる。

長時間「朝涼」の前で立ち尽くしていたせいか

美術館のスタッフが僕をマンツーマン・ディフェンスで

監視するほど 見とれてしまった。


泉鏡花の作品にインスパイアされた「妖魚」は

いわゆる人魚の女性を描いた大作だが

清方の特徴とも言うべき切れ長の目の美女ではなく

目力がありミステリアスな雰囲気が漂う。

清方は単に鏡花作品の挿絵を描いていただけではなく

自らが鏡花文学の熱狂的ファンであったため

鏡花の幻想的な世界のエッセンスが

ビジュアルとして具現化されたと言えるかもしれない。


「曲亭馬琴」は失明した滝沢馬琴が口承で「八犬伝」を

女性(義娘?)に伝え記録させる模様を描いた作品で

薄暗い部屋の中央に行灯で明かりを灯しながら

手振りを交えながら「八犬伝」を語る

坊主頭で白目を剥いた馬琴の風貌と

それを機械的に書き留める女性の人形のような無機質さが

どこかしこに怪しげな印象を与える。


全ての作品に言及していてはキリがないわけだが

文芸雑誌の挿絵から日本画へと進みながらも

晩年は「卓上芸術」と称して

再び庶民のための絵を志した略歴は

特筆すべき点であると言えよう。


ただ一点難ありなのが

図録が9点に分散しており

全て購入すると1万円でも足りないところ。

鎌倉市鏑木清方記念美術館のものをそのまま販売している為

やむを得ないのかもしれないが。


比較的空いている平日に再度訪れ

再度あの「朝涼」をじっくりと眺めたいと思う。





2008年1月16日水曜日

「アース」

日曜日にMOVIX京都にて
映画「アース」を鑑賞。

内容は「ディープ・ブルー」の続編という位置づけだが
メッセージを敢えて投げかけず
淡々と生物たちの生態を描写していた
「ディープ・ブルー」とは対照的に
地球温暖化によって動物たちの生命が脅かされている
というメッセージが前面に出ていた。

一言で言うと WWFに募金しよう という内容。
「ディープ・ブルー」よりも「不都合な真実」に近い。

この種の映画に「かわいそう」という視点を持ち込むのは
意味が無い。
飢えたホッキョクグマがかわいそうなら 
狙われるセイウチだってかわいそう
群れで襲い掛かられるゾウがかわいそうなら
おなかを空かしているライオンの赤ちゃんだってかわいそう。

ただここから読み取れることがひとつだけある。
彼らは必要最低限の殺生しかしていないということだ。
飢えに備えて大量に狩りをしてエサをストックしておく
ことはなく 空腹ギリギリまで狩りをしない。
食欲というものが快楽につながっている人間に比べ
食欲は生存的欲求を満たすものにすぎない。

だが皮肉なことに 
飽食にまみれむさぼり食うだけ食った人間が排出した
二酸化炭素の影響で
自然環境が変化し 生態系のバランスを乱している。

であるとするならば
たとえ遅きに逸した感は否めないとはいえ
自然をかつての状態に近づける努力を
人間はするべきかもしれない。

だが「循環型社会」とか「サスティナビリティ」とか
言うと耳障りはいいわけだが
本気で取り組もうとすると血のにじむような努力と
欲望に耐え忍ぶただならぬ忍耐力が必要だ。
この「豊かな社会」を享受しまくっている日々の生活を
変えるために腹をくくれる人はどれだけいるのだろうか。
ペットボトルをどうこうとかレジ袋がどうこうとかいう
レベルでは もはや北極の氷を元通りにすることはできない。

とはいえ 地球温暖化を起こしたのは 人間である。
このまま温暖化を進行させ
恐竜のように滅びる日を待つのか。

我々に投げかけられたボールは とても速くて重い。
このボールをどのようにキャッチするべきなのか
僕には受け止める自信がない。