2011年5月12日木曜日

「劇場版神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ」

昔から、聴く音楽は「ロック」とカテゴライズされるものが多かった。

にもかかわらず、異口同音に発せられる「ロックンロール」という言葉にはどこか、

意味がわからなくつかみどころがないのみならず、少なからぬ抵抗をずっと引きずってきた。

この映画を観終わり、ようやくそれに折り合いが付けられた気がする。


映画に沿って自分なりに考えた「ロックンロール」とは、

良い/悪い、ポジティブ/ネガティブ、といった評価の軸で都度価値判断するのではなく、

淡々と流れる物理的な時間をまさに"石が転がるように"嬉しくても悲しくてもとにかく前へ進み、

結果としてぼんやりと見えて来るものを肯定すること、だった。


闊歩する「ロックンロール」という言葉の中にはどこか、上から目線で、

薄っぺらい割には画一的な型にはめることを強要するものを時折含んでいる気がする。

そこに少なからぬ違和感や不信感が今まではあったのだが、

映画を観てそれらは「ロックンロール」と呼ぶ必要はないとわかってから、楽になった。


そして、「ロックンロール」が上から目線ではなく万人のものであるということと、

ソーシャルメディアの隆盛目覚ましいまさにいまの時代を生きていることとの大いなる関連を、

強く実感せざるを得ない。

ソーシャルメディアと映画と言えば、もちろん「ソーシャル・ネットワーク」が浮かぶ。

だが、マーク・ザッカーバーグをモデルにしたアメリカの学園モノラブストーリーにはどこか、

しょせんソーシャルメディアの作り手にまつわる他人事と冷めてしまうところもあった。

それに比べ「劇場版神聖かまってちゃん~」には、ユーザー目線の当事者意識がもたらす、

えも言われぬ感動がたくさん詰まっている。

劇中でバンド「神聖かまってちゃん」自身が何か強烈なメッセージを流すというよりもむしろ、

「神聖かまってちゃん」がライブやストリーミング配信を見る登場人物の集合的無意識に働きかけ、

見ているひとりひとりの「ロックンロール」を覚醒する存在であることは、

遠からず映画を観ている観客にもその興奮が直に伝わり、感動をシェアし得るものになっている。

であるならばやはり、「ロックンロール」という何か1つの画一的なメッセージがあるのではなく、

twitterやFacebookで好き勝手に「なう」「なう」言いながら時間が経てばTLから消えていく言葉の裏側に、

消費されない「ロックンロール」という目に見えない存在を潜在的にシェアしていることに、

希望を見出したい、と言いたくなる。


そこに、ソーシャルメディア全盛のいま、リアルタイムで、

劇場でこの映画を観るべき意義の大きさを強く実感した。