2010年12月26日日曜日

「ノルウェイの森」

純文学と官能小説 

生と死

洋画と邦画

様々な境界を彷徨い両端をつないでひとつになるような印象がとても強く

原作を踏み絵にする 原作を腫れものを触るように扱う 

そのいずれでもなかったのが何よりも一番嬉しかったです


小説まんまのセリフが飛び交うことに軽く驚きつつ

それが良い意味で小説のまま 実生活でまず耳にすることのない会話として成立する

そして思わずクスッと笑ってしまうような甘酸っぱさを

糖度も酸味も損なわず違和感なく成立(必ずしも「再現」ではない)させている

それを成立させている完成度において映画のオリジナリティが十分発揮されていて

キャストやスタッフの力量を感じました


そしてやはり リー・ピンビンのカメラの色合いとアングルが良かった!

特に登場人物の横顔を撮る映像が印象的で

人の顔って正面と横からではとこんなにも違うものかと感心しっ放しでした






番宣で菊地凛子が「共演者の事を好きにならないなんて言ってる人は絶対ウソ」

という話を聞いた上で観たため

彼女のキスの仕方が気になって気になって気恥ずかしかったです

あんなラブシーンをメジャーな映画でする女優

日本中探しても他にいないのでは?と思うくらいに


それ以上に 水原希子はとても良かった

水原希子を見るのはもちろん「ノルウェイの森」が初めてではないですが

ひと昔前に雑誌で高橋マリ子を見て余りのキュートさに目まいがした"感覚を"思い出しました

菊地凛子の規格外は想定内でしたが

水原希子の規格外は想定外でした

恋愛経験ない中高生の頃これを観ていたらと想像すると怖くなるくらいに


出てくる建物や衣装やインテリア雑貨もひとつひとつアンティークで素敵なので

逐一チェックせずにはいられなかったです

三茶から下北までレトロ雑貨店巡りとかやったよなあ・・・とか

国立大学や名門私立大学の古びた近代建築ってわくわくさせられて好き・・・とか

そんなことを頭に浮かべながらストーリーを追う忙しく贅沢な時間でした


ストーリー的にも舞台美術としてもワンカットワンシーンが美しく

木の魅力に耽る余り「森」の全体像がつかみ辛かった感は少なからずありました

あるいはこれこそが 「森」に迷い込んだ証拠だったと言えるのかも知れません








僕は大好きです 支持します

(2010年12月11日観賞)










2010年10月14日木曜日

「シルビアのいる街で」





一生のうち何度も何度も観続ける映画になりそうな気がします



きっかけは最も好きな映画監督 ビクトル・エリセの影響でした

エリセが絶賛したことが「シルビアのいる街で」を世界中に注目するきっかけになった という話を聞き

是が非でも観てみたいと思ったからです



エリセの「エル・スール」には 光で時間の経過を表現したシーンがあります

「シルビアのいる街で」にもその影響を感じさせる箇所があるのみならず

ホセ・ルイス・ゲリン監督は 光 風 ガラス などを巧みに用い

舞台となる街ストラスブールの時間的 空間的奥行きを克明に描写し

主人公の彼や彼女が画面に登場する もしくは 路地を曲がるなどして画面から消える前後の映像を

執拗に長回しで撮ることで 主人公を街の中に相対化させ

ストラスブールの街の魅力を十二分に引き出していたように思います



この映画にはドラマチックなストーリーも一切登場しなければ

人工的に付け加えられたBGMすら1曲もありません

さらに言えば 翻訳家さんの1文字当たりのギャラが気になるくらいセリフすら数える程度です

言ってみれば 街のごくありふれた日常を撮ったような情景が延々と続くわけですが

主人公の彼がひとりオープンカフェから眺める視線が

反復する日常を退屈でマンネリしたものから刺激に満ちた艶っぽいものに変えているところに

何度観ても飽きなさそうな耐性を物凄く感じます



視線の先はずばり 美しい女性たちです

しかも 焦点はひとりの女性になかなか定まらないというタイトル泣かせな展開で

男性の心理を言葉を用いず映像で赤裸々に描写しています

(ここが良いのです とても!)



とはいえ 人間の周辺視野は広く 興味もない(美女以外の)人々も目に映ってしまい

女性の美しさと街のリアルさに花を添えているわけです



ヨーロッパ映画にありがちな小難しい蘊蓄は一切出て来ません

歴史あるストラスブールの美しい街並みが全てを内包しているから

その必要も無いと思います










2010年10月4日月曜日

「シングルマン」



トム・フォード監督デビュー作「シングルマン」

未だ興奮冷めやらぬ思いがします



ファッションデザイナーらしい舞台美術への細部に至るこだわりと

フェティシズムが絡み合った映像は

終始隙がないながらも 息苦しさがなく優雅

息苦しくない優雅さゆえ 息つく暇もなく魅了されてしまう感じがしました



タイトルロールからそのまま冒頭になだれ込む全篇を象徴(予告)するような映像美が

五感を研ぎ澄ませる余り

コリン・ファース演ずる主人公の目と鼻が敏感かつ貪欲にエロスを嗅ぎつけるや否や

観ている側としては 

登場人物の身体の至る所があたかもフェティッシュの対象物であるかのごとく焦点が合い

それが脳内でシャッターを切りクリアに現像され続けてしまうため

驚嘆するほどの彼の貪欲さと敏感さに頭の中が埋め尽くされてしまいました



しかしながら 眼鏡の奥は哀しいまなざし

貪欲かつ敏感な彼の感覚は 

戻らない過去に対する繊細さを逆に浮き彫りにしていた気がします



音楽も素晴らしかったです

中でも極めつけはこれ

ベネックスがブルーで表現した世界をトム・フォードはチョコレート色に染めました



トム・フォードの自伝的要素も盛り込まれたとのことですが

ゲイ・ムービーというより 

性差を越えたエロティックさと人の絆と悲哀に満ちていたのが

良かったのではないでしょうか



もういちど観たいと思います









2010年8月10日火曜日

靴音



先日 カヒミ・カリィさんと大友良英さんのLIVE「Last Present カヒミ・カリィ×大友良英」へ行って来ました


会場は100名ほどの観客で満員 

カヒミさん(vo.) 大友さん(g)というシンプルな2人編成

白い壁と黒く塗られた打ちっ放しの天井に四方を囲まれながら

ちょうど大友さんの頭上に垂れ下っていた電球の明かりのように

柔らかく暖かな音楽が奏でられました

1曲目では 飛び入り参加(?)の熊谷和徳さんのタップがステージ向かって左から

大友さんのギターが向かって右

カヒミさんの歌声が正面から

(そして楽屋から漏れ聞える娘・ニキちゃんの鳴き声が後方から!)という具合に

サラウンドスピーカーから発せられたような音のひとつひとつを全身で受け止め贅沢に味わえました


熊谷さんは今回初めて拝見したのですが

そもそもタップダンスをちゃんと観たのがおそらく生まれて初

打楽器でもあり踊りでもあり身体でもありそのどれでもない感じがしました

シューズと床がカチカチ擦れる音が心地良かったです


ご自身がTwitterでおっしゃっていた言葉

"TAPは音楽なのかダンスなのか?とよく聞かれる。 その壁を越えたい。壊したい。"

その意気込みが靴音から生で伝わって来ました









2010年7月17日土曜日

束芋 断面の世代

祇園祭の見どころが頂点に達した頃をさえぎるかのように、京都は大雨にさらされた。

鴨川の水はコーヒー色に濁り、水攻めにあった城のような金閣寺の有様に顔が青ざめた。

古都の豪雨というニュースは、こと金閣寺に関しては視覚的インパクトが凄かったためか、

たちまちネット上に伝播していった。



とても奇妙な感覚を覚えた。

この金閣寺の写真、笑いの種とまでは言わないまでも、

どう考えても"ネタ"として使われていたからだ。

当事者にとっては災害でも、傍観者にとっては対岸の火事、といったところだろうか。



別にモラルを振りかざし とがめたいわけではない。

直接的に災害にあった立場でもないわけだし、

逆の立場であれば同じ輪の中に入っていたかもしれないことを完全に否定出来る自信もない。

同じものを視覚でとらえても、その結んだ像からもたらされる感情の振り幅の大きさが、

奇妙に感じられただけだ。





もやもやした思いを昇華しきれないままに見た「束芋 断面の世代」展は、

ここ数日研ぎ澄まされていた神経の部分に粗塩を塗られるような強烈なインパクトをもたらしてくれた。



普段暮らしている 文字通り日常の世界には「断面」が存在していて、

そこには非日常へと落下する空間が口を広げている。

その深い深い「断面」へ落ちてゆく非日常の像は脳内で自由に結ばれ秩序立てられるわけだが、

その秩序は個人の脳内における秩序なのであって、 

他者から見れば奇形でありシュールなものになりうる。

ただ、他者から見て混沌としたその他者にとっての秩序の中にも共有しうる共通項があり、

その共通項によって浮かび上がってきた新たな像が他者の脳内にも広がってゆく。

こうして共有し伝播していく中、個として共感し得る部分も齟齬をきたす部分も出て来る。

しかしながら、共感するにせよしないにせよ、個と個がつながってゆくことだけは確かである。





違う日に違う思いを抱え作品を観ていたならば、全く違うことを考えていたかもしれない。















2010年7月16日金曜日

森山大道 「NORTHERN」





心斎橋コム・デ・ギャルソンSIXで 森山大道写真展を見てきました



"グローバリゼーションにも流され得ない濃い毒"を讃えた言葉が白壁に記され

「カド」という名の角にある居酒屋かスナックが角に配置された

昭和の北海道を切り取ったモノクロの写真の数々が並んでいました



川久保玲は白と黒のみで彩られた

直接経験していないながらもどこか忘れ難い強烈なノスタルジーが漂う空間の中央に

鉄の柵を立てていて

それは普遍的な日本の原風景を閉じ込める試みであるのと同時に

流されないもの 流され得ないものを地に足を降ろした強い意思表示かもしれない

と思いました











2010年5月22日土曜日

「息もできない」

ホウ・シャオシェンをして

「ヌーベルバーグの時代にゴダールの 『勝手にしやがれ』が現れた衝撃と同じだろう。」

と言わしめた

ヤン・イクチュン監督のデビュー作にして韓国映画の金字塔を予感させる傑作


登場人物が抱える家族への憎しみから来る暴力が終始スクリーンに飛び交う

その暴力の裏側には同じく家族に対する愛情が隠れ込んでおり いわば裏表の関係

主人公のチンピラ サンフンが女子高生 ヨニと出逢うことで

オセロ盤の上で暴力は愛情にひっくり返り世界は一変しようとする

だが盤上にはひっくり返せ得ない石があることも同時に露呈してゆく


感情むき出しの激しい演技と垣間見せる心温まるシーンが交差し

まさに タイトル通り(「息もできない」)









2010年4月25日日曜日

My favorites

京都国立近代美術館でマイ・フェバリット展を観てきました


同館所蔵のコレクションのうち 「その他」に分類される作品

(ジャンルやカテゴリーを明確に分類できないため便宜上「その他」とされたもの)を編集した

常設展なのに企画展のようなユニークな内容です


デュシャン目当てに行ったものの結果として一番目に留まったのは

ダダ 未来派 フルクサスといった

芸術運動に関わるエディトリアル・デザインでした


活動の概念などを図示し視覚化されたものによって

図形や線の活き活きとした動きの中から 志の高さや強いエネルギーを感じ取れた気がします


特にフルクサスについては もしこの時代にインターネットが普及していたなら? と

(あるいはネットがない時代に 思考がこのように概念化されていたことについて)

思索を巡らせながら見入ってしまいました










2010年3月19日金曜日

「スイートリトルライズ」

うす水色した壁やドアにアンティーク家具がなじむ部屋

朝の光が差し込み まぶしそうな顔でベッドにうずくまる傍らで

キッチンでは布団と同じターコイズブルーのル・クルーゼがコトコトと音を立てる


ベランダに出て心地良い風に当たり 大きく息を吸い込む

新鮮な空気を窓の外から吹きかけ 「おはよう」 と窓越しにささやく


おそろいではないが 風合いが似た寝巻きの二人


朝食を済ませ 真っ白なrepettoのスニーカーを履いて部屋を出る

かごバッグを片手にバラ園へと進む道

赤と白のバラについて幸せそうにおしゃべりをする二人の視線の先に

黄色いバラが写り込んできた

______


最初20分くらいまでは 言葉づかいからインテリアから何から何に至るまで絵に描いたような理想の生活でした

その後一変し ラスト直前まで不安と緊張感を抱えたままになるとは夢にも思わなく

正直 ものすごく怖かったです


理想の生活に開いた針穴ほどの小さな心の穴に 

窓の外から大きなくさびを打たれるような感覚が怖かったのだと思います




矢崎仁司監督の他作品に比べると 今回は"大味"な印象を受けました

(個人的にはマイナス材料です)

僕は1冊も読んだことがないので何とも言えないのですが

原作者 絵國香織さんの世界が色濃く反映されていたせいなのかもしれません

(そこのところは読んでいないので本当に何とも言えないです)

矢崎監督の映画にはいつも 美しい花の裏側にわずかな毒を塗られた感じがするのですが

今回は花そのものが致死量ギリギリの毒を持っていた そんな印象です


ただ "大味"ながらも 長回しせず巧みな編集で印象的なシーンを描くあたりは矢崎ワールドで

魅了させられる印象的なシーンが今回も多々




ガラスのビンで出来た愛を割れるか割れないかギリギリの力で握りしめ続けるような2時間でした













2010年3月11日木曜日

「涼宮ハルヒの消失」

キャラクターの絵などやはり苦手ですし

主人公の男の子のモノローグ(心の中の語り)中心なのが若干くどく感じてしまい

30分たたないうちに挫折してしまうかも…と最初は思いました


結論としては 

日常-非日常-祝祭-消失の4象限をねじれた時間軸をぬいながら行き来する

ミステリアスなストーリーがよく練られている素晴らしい内容でした




非日常というと お祭りのように解放感がある楽しいものを思い浮かべがちですが

景色が灰色がかったモノクロに見えてしまうような 悲しげな非日常もあるのだ と


それが「消失」 というわけです




そして 「消失」された非日常から抜け出るために 時間軸をあっちへ行ったりこっちへ行ったり・・・

「エヴァ」の重たさと 「時をかける少女」のタイムトラベル感覚 両方に近いものを感じました


ただ 気持ちをスカッとさせるタイプの映画ではなかったので

疲れているときに観るとしんどくなりそうな気がしたのも確かです




日本アニメのレベルの高さは作画技術に限った話でない点を

またしても思い知らされました










2010年1月31日日曜日

Le Foujita

Leonard Foujita展 "馬とライオン" ポストカード

白の記憶に付箋を貼っておきたくて買いました



20100128_3











2010年1月28日木曜日

「(500) Days of Summer」

例えるなら

"80年代UK音楽にインスパイアされた現代アメリカ文学を原作に撮ったIKEAのプロモーション・フィルム"

みたいな感じがしました





バカで軽快な知的セリフの言い回しとサントラを作るために映画を撮ったような挿入歌のセンスの良さに

知らぬ間にぐいぐいと惹き込まれていくのですが

恋愛における白と黒のはっきりしなさがはっきりしているところが惹き込まれる要素なので

言葉の端々に神経を研ぎ澄ませながら切ない思いを強いられる苦々しさは鑑賞後も尾を引きました





恋人と上手くいっている人は上から目線でIKEAを闊歩したくなり

そうでない人は収録曲が街で耳に飛び込んできたときにそれぞれの思いでこの映画をふりかえり

報われない片想いをしている人は部屋でひとりサントラをヘッドフォンで聴きながら思い切り泣きたくなる

そんな映画なのではないでしょうか?










2010年1月20日水曜日

「Gran Torino」

冷戦以降アメリカが抱えてきた栄光にひそむ影を

クリント・イーストウッド自ら演ずる朝鮮戦争帰還兵の老後を通じ"懺悔"する姿が

深い感動を呼ぶ



朝鮮戦争で勲章を授かり 

アメリカの象徴フォード名車中の名車"グラン・トリノ"を愛車に持つコワルフスキー(イーストウッド)

だが名車"グラン・トリノ"はシャッターを下ろしたガレージの暗がりにしまわれたまま

アメリカの栄華を誇示するかのごときそのエンジン音を高らかに鳴らすことはない

朝鮮戦争における殺戮が彼の人生に大きな影を落とし

アメリカの栄華は彼の心の中で愛車とともに暗く閉ざされてしまったからだ



戦争の記憶は家族との間に軋轢を生じ

理解者である妻に先立たれると

家族は日本製ハイブリッド・カーの車中で彼を偏屈がり罵る



コワルフスキーの影が大きな孤独に覆い被せられる中

隣にアジア系民族の一家が引越して来る

ベトナム戦争においてアメリカに協力したことでその後不遇な運命をたどり続けるモン族の一家だ



コワルフスキーは自らの戦争の記憶による苦悩を増幅させるベトナム戦争という

アメリカが抱える大きな影の輪郭を浮かび上がらせるモン族を毛嫌うように避けて回るが

影の輪郭を形取るモン族の中に次第に自らの影を受容する術を見出し "懺悔"に至る

(「グラン・トリノ」はベトナム戦争という共通点においてコッポラ「地獄の黙示録」と関連性があるが

 それについてはこちらでわかりやすい解説を聴くことが出来る)




アメリカの影をコワルフスキーというひとりの老人に投影させたとも

また アメリカ人が個々に抱える心の闇を冷戦以降のアメリカ史に重ね合わせたとも

そのどちらとも言えると思う


(コワルフスキーという主人公の名はおそらく

primal screamが"Kowalski"という曲の収録されたアルバムタイトルで

タランティーノが「Death proof」

ともにオマージュを捧げているアメリカン・カー・チェイス・ムーヴィーの金字塔

「vanishing point」 主人公の名から拝借していると思われる)




アメリカ映画史として見ると

西部劇俳優イーストウッドがその集大成ともいうべき熱演を

現代劇において(しかもこのような結末を迎える映画で)魅せている点も見逃せない




上記のように壮大なプロットで構成されつつも

あたかもコワルフスキーが心の闇を内に秘めたかのごとく

本編でそれらが直接語られることはない

だがイーストウッドがこの映画に込めたアメリカの"懺悔"は

まるで映画公開に合わせたかのように 時を同じくして起こったモン族の強制送還に代表されるように

極めて現代的かつ切実な祈りと言えよう













2010年1月16日土曜日

Haus Habsburg,Velazquez

京都国立博物館でTHE ハプスブルク展を観て来ました


名だたる名画の数々に見どころは尽きないですが



王家の肖像画が展示されたコーナー



とりわけ ベラスケスの2枚の絵



"王女マルガリータ"と"皇太子プロスペロ"に強く惹き込まれました




少女少年としてのはにかみと王家としての気高さが共存する表情とたたずまいが



ベラスケスが筆を走らせた油彩によって



筆舌に尽くしがたい ならぬ 筆舌に全て言い尽くされた かのように



額縁の中で濃密に語られています



油彩の上に残る筆致には あたかも今書き終えたかのごとき生(ライブ)の感覚が残り



マルガリータ21年 プロスペロに至っては4年という短い生涯を



生きた証として現代を生きる我々の胸に確実に刻み込む生命の永遠なる力強さは



涙を誘います




ベラスケスの2枚の絵を観ているうち



"宮廷画家は果たして本当に描きたい絵画が描けたであろうか?"という命題を



とりあえず脇に置いておきたくなりました



たとえ王家の威信というフィクションが刻み込まれていたとしても



そこには芸術のみならず



遠く時空を超えたメディアとしての宮廷絵画が存在するからです



歴史を伝えるメディアとしてはもちろんのこと



時代 地域 階級 年齢 性別 を問わず すべての人間には力強い生命がある というメッセージ



額縁越しにそれを伝えるメディアとしてのマルガリータとプロスペロの姿は



はかなくも気品と爛漫さに満ちていました