2009年10月27日火曜日

「空気人形」

空気人形(ペ・ドゥナ)が心を持った人形として誕生する

とても美しいシーンで物語の幕は開くわけですが

僕はこのシーンにむしろ死を連想しました

誕生は同時に確実に死へ向かうという無常感を描いているのみならず

死が匂わす強烈なエロスが生へと昇華される美しさ

つまり 

空気人形の死へ向かう過程でエロスが生を補ってゆく話に違いないと

このシーンを観て直感的にそう思い 

また実際そういう話だったと思っています

レンタルビデオ屋の店員(ARATA)が空気人形に対し抱いてしまった特殊な性的衝動や

「ベティー・ブルー」「盲獣」などにも通ずる"エロスとタナトス"(性愛と死)を行き交う

危険かつ美しいシーンなど

いわゆる性描写の中にそれが明らかに投影されているということと

自らのアイデンティティを問うため

空気人形が生みの親である人形師(オダギリジョー)の元を訪れ

帰り際に人形師に声をかけられ空気人形が答えるシーン

(このシーンものすごく好きです!)で

空気人形が言った言葉など

是枝監督が舞台挨拶で

"ここ数年僕自身が見てきたものの中に欠落していると感じたものを
 
心を持った人形が補う話にした"

とおっしゃっていた通り

欠落したものに息を吹き込み再生する させようとする 

一貫したモチーフがあるということが

ストーリーを隅々に至るまで瑞々しく 

また わかりやすくしていたと思います




欠落したものに息を吹き込み再生する 

ということで言えば

欠落したものとは日本映画そのもの と

ストーリーの説得力で伝える意図が監督の中にはあったんじゃないか?と 

どうしても思えてしまいます

レンタルビデオ屋の店内で店長(岩松了)がDVDを片手に

"こんなものは代用品でしかない 映画は映画館で観るもの"と語るシーンや

テオ・アンゲロプロスの中でもややマイナーめな作品が置いてないかを客に尋ねられ

"うちはもっぱらレンタル専用DVDだから『T』に行って"

"いやこれはDVD-BOXにしかないので『T』にも置いてないです"

というやりとりをするシーン

あるいは上記のようなやりとりが出来る店員の映画に対する豊富な知識や情熱

売れ筋の新作ではなく古い名画のポスターやPOPで装飾された店内など

つまり一言で言ってしまえば

作品の舞台となる街の小さなレンタルビデオ屋が

映画に対する"心を持った人形" であり

作品の圧倒的な説得力を結果で示すことで

欠落した日本映画に"息を吹き込み"再生する意思を表明したい というのが

この作品のもうひとつのテーマだったのではないでしょうか?

(主人公の設定 撮影:リー・ピンビン ラストシーンなどから
 
「赤い風船」へのオマージュとも思えます)




作品の圧倒的な説得力を築く上での重要な要素として

映画音楽のあるべき姿を見事に体現しているのは強調すべき点です

例えば ビデオ屋まわりの風景にリアリティを持たせるために

店内BGMと付近の音がケンカしてガヤガヤした喧騒を演出することに何ら必然性はなく

world's end girlfriend書き下ろしのインストゥルメンタルを

空気人形に寄りそうように奏でるファンダジックさの方が

作品に"息を吹き込み"リアルを際立たせているわけです

加えて エンドロールに至るまでボーカルを一切入れないことが

普通の映画よりも少なめな登場人物のセリフや

随所に出てくる空気人形のモノローグ

物語を語る上で重要な"Happy Birthday To You~"

などを活かす役割を担っていることも重要です




日頃目に留めない とあるもの が美しいという帰結に込めた美的感覚と現代的な意義

素晴らしいとしか言いようがなく とても感動しました











2009年10月23日金曜日

「手紙」

今日はやたらこの映画のことが頭に浮かんでは消えた

芸能人裁判 電車脱線事故・・・
被害者もしくは家族や遺族の怒りや悲しみ
やりきれなさや不条理さを納めたいがために
感情をぶつける矛先を何かに見いだそうとする気持ち
"わかる"

いや 実はわからない 
わかったふりをしているだけに思えて仕方がない
というより わかりっこない

いつもと変わらず電車に揺られ出かけて帰る
帰宅してテレビをつけ
事故の責任は会社の体質そのものという被害者や遺族の感情に
同調しそうになる

何の興味もない芸能人の裁判の模様が
事件の核心に触れずのらりくらりとしていることに
いら立つ

同じ社会を生きているという意味で
まったく無関係ではいられないことはもちろんわかっている
だが わかりっこない当事者のやりきれない思いを
"わかる" かのように処理しようとする自分の頭の中が
さっぱりわからなくなる

社会とおもいっきりつながっている自分が
社会から不条理に断絶を強いられた人々の気持ちを
お気楽にくみ取ろうとすることに腹が立つ

しかも腹立たしい思いを抱えながら
お腹がすいて夕食は何を食べようか?と同時並行で考えている
実にくだらない

このようなくだらなさが
結局なにもわかりっこない証拠なんだと思う

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主人公(山田孝之)はお笑い芸人として成り上がる夢を捨て
恋人(沢尻エリカ)と平凡で穏やかな暮らしを歩むことで幸せをつかもうとする
就職先での評価もすこぶる高く一見順風満帆に見えた

しかしながら 
兄(玉山鉄二)が殺人犯として刑務所に入獄していることが会社にバレると
工場の単純労働現場に左遷されてしまう

工場を訪れた経営者が主人公へ
"ここからはじめるんだ"と語りかける

兄の犯罪を犯した原因が自らの学費を"かせぐ"ためにあったことに
複雑な思いを抱いていた主人公は
面会を断っていた兄にお笑い芸人の慰問という形で
間接的に再会を果たすが
ステージを見つめ泣きじゃくる兄の演技がすごい

今 "演技"と言ったが
正確には"演技"というより "素" "リアル"
タマテツの感情移入っぷりがすごい

迫真の演技は感動を誘うが
共感や救いとはまた別のような気がした
救いがあるとすれば
それは主人公と兄の間にだけ存在する絆であって
観ているこちらがどうのこうのいうものでもない感じがした

突き放した言い方に聞こえるかもしれないが
当事者にならない内はフィクションとして感動している類の作品に感じた

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映画の出来がどうこうとか原作を読んでいないことに触れる気はない
この映画を多くの人に観て 感動して 共感してほしい! と思って
書いているわけでもない

ただ今日はやたらこの映画のことが頭に浮かんでは消えた という
僕のつまらない頭の中をつらつらと書いただけ









2009年10月1日木曜日

小泉文夫『音楽の根源にあるもの』

日本における民族音楽研究第一人者のエッセイ・講演録・対談をまとめたものです


本書収録「自然民族における音楽の発展」という講演録において

"リズムは人間だけのものか?"という問題提起に沿って話は進んでゆく中で

バリ島のカエルが出て来ます

バリ島のカエルは"ボーン ボーン"という声で鳴くらしくリズムがとりやすいからか

あらかじめ録音したカエルの鳴き声をテープで流すとそれに合わせて鳴こうとし 

テープを止めると鳴きやんでしまうそうです

つまり 

一緒に音楽を鳴らしたいという願望はバリ島のカエルにも存在することになるわけですが

途中でところどころズレが生じてきてしまい 

リズムを合わせるという感覚を獲得していないということがわかってしまうわけです


では人間ならば必ずリズムを合わせることができるのかというと 

それは結論の急ぎ過ぎで

それを検証する例としてエスキモーを挙げています

鹿を捕って暮らすカナダのカリブー・エスキモーが

金たらいをたたきながら1人で歌っているテープを聞くと

自分の歌声にリズムが合わせられないのがわかるそうです

エスキモーがリズムを習得していないという話は一部で知れ渡っているそうですが

それがエスキモー全てに当てはまる話ではないということを

今度はアラスカの鯨エスキモーを例にとり説明されているのですが

鯨を捕るときに歌う歌を録音すると 歌と太鼓の拍子がピッタリ合っていたそうです

さらに驚くことに 

"今のは失敗だから消してくれ" と

エスキモーから録り直しを要求されたとのこと

帰国して "失敗" と言われたテープを聞き直してみると 

たしかにリズムがほんのわずかズレていたそうです

つまり エスキモー=リズム感がない というのは間違いだったわけです


このふたつのエスキモーの違いはどこから来るのでしょうか?

"いっしょにごはんを食べるために、食糧を獲得するために働かなければならない"
という"共同社会"

に 違いが生じる原因があると仮説を立てています

リズムが取れなかったカリブー・エスキモーは1人で狩猟に出かけるのに対し

鯨エスキモーは捕鯨の息を合わせるために歌う慣習がある

どうやらそこにリズム感の致命的な差が生じるのではないか?と考えるわけです

仮説を裏付けるためにスリランカのベッダという種族の例なども出て来ますが

中身に違いはあるものの結論としては鯨エスキモーと同様のものに落ち着いています


ここまでは なるほどなるほど と感心しながら面白く読んでいたのですが

次の一節に 心臓を射抜かれたようなショックを受けました


"そういうふうに考えてみると、私たちが音楽的だと考えていることが、
本当は人間の不幸の始まりかもしれない"


リズムを習得すること="共同社会"を営むことは 

私有を巡る争いの始まりでもあるから

"音楽的"=リズム感が良い,リズムを合わせる ということが

果たして人間にとって最も望ましい音楽の形態と本当に言えるのだろうか? という 

アイロニカルな問いかけに感じ 身震いさせられる思いがしました


このあとも首狩り族 バリ島のケチャ 沖縄民謡 アフリカの原住民 など

具体的に話が進むわけですが

結論をざっくりと述べてしまえば 音楽のリズムは好き/嫌いではなく

社会や生活とのかかわりの中で形成されてゆくということが書かれているように感じました


自然や民族や社会と音楽との関わりを音楽理論の知識なく楽しく読める論集で

音楽というものを通じまるで世界を旅してるような気分になれる本です


「小泉文夫全集」を理解出来る範囲内で読んでみたくなりました