2011年12月31日土曜日

『マザーズ』

先日、思考や価値観を揺さぶるような圧倒的なものについて、という話をたまたましていた。


例えば美術館へ行きすぐさま「あっ、この絵自分の好み。」と言えてしまえる間は、心の奥底で求めているものには出会えていないのかもしれない。
たとえそれが嫌悪や拒絶を含んでいたとしても、即座には言葉に出来ずその場を去ってなお身体の奥に深く重く入り込んだ
得も知れぬ抽象的な存在。
根源的に求めているものとは実はこういうものなのであって、それゆえなかなか得難いものなのではないだろうか、と。


金原ひとみ『マザーズ』にはそんな「得難い」「圧倒的なもの」に遭遇した凄さがあった。

前半100ページ弱を読んだ段階で"母親であることと女であることにさいなまれる姿は同時に人生における自由とは何かを問う"
などと主題を性別分け隔てなく安直に一般化しようとしていた自分を、読後大いに恥じる。


もしこの本を読んでいなければ結婚し子供が生まれたとしてもここに描かれているような女性の葛藤を知らずして男性は死んでゆくのかもしれない
と思うと恐ろしくなりつつ、子を持つ母性と育児に制約を受ける恋愛や性は代償や単純な対立関係として成り立つものではないという
女性が抱く愛憎の深さが男性である自分にも一定の距離を置きつつ知らしめる強烈さに痺れた。


人目につく場所で読んでしまい涙を隠すのに苦労を強いられたが、
それが号泣や嗚咽に至らずに済んだのは自分が男性であることの得した点であり、また、大きな損をしている点であったように思う。




















2011年9月10日土曜日

「ツリーオブライフ」

ビジネスホテルに泊っても聖書を1ページも開くことなくチェックアウトする自分にとって、

この映画を説明する知識など有ろうはずも無い。

また、寡黙と温厚によって存在感を担保しているような父との間に軋轢など全くなく、

経験の側から共感を得るのも、不可能に近い。

しかしながら、知識や経験の欠如をものともせず、それを補うだけの感動を秘めた、魅力的な作品だと思った。



映像に効果的な音楽が重なったときの興奮が映画を趣味とする者にとって何よりも楽しみであるのはみな同じはず。

「ツリーオブライフ」における"それ"が、「モルダウの流れ」

音楽の授業でぼんやりと聞き潜在意識の奥深くに居眠りしていたような曲が、

テレンス・マリックの指揮棒に導かれた魔法のようなシンフォニーで、頭から水を浴びせられたように目を覚ます。



音楽の授業は認知するきっかけであって、感動を得たのは映画の力。

それでも、音楽の授業で"モルダウ=名曲"という回路が思考の中に形成されていなければ、

映画でこの曲を聴いたとしても、美しいシーンだなとは思いはすれ、深い感動を得られたかどうかは不明だ。

そう考えると、"教育なんて学校では教えてくれない"などというのは単純で紋切り型な物言いに過ぎないのでは?と、

学校教育の奥の深さを再発見する旅に出る身支度を整える気分にはなれたのかもしれない。



似た思いを「バッド・エデュケーション」「帰れソレントへ」でもしたことを覚えている。

曲としては「モルダウの流れ」より「帰れソレントへ」のほうが好みだ。

でも、映像とのシンクロによってもたらされる感動は、「ツリーオブライフ」のほうが、遥かに上へ。





今年の夏は、これと「コクリコ坂から」だった。

ともに2回観た。







2011年7月24日日曜日

森山大道写真展「オン・ザ・ロード」

関西では初の大々的な回顧展

なかでも、99点のカラー写真≪東京≫が展示された空間には、とてもヒリヒリさせられた。

"日常がこんなにも猥雑なものであるとは驚きである"という趣旨の感想を事前に多く見受けた通り、
たとえば走り去る電車など性的な何かを直接撮らなくとも他の作品との連関によって
何かしら想像を掻き立てるような展示の構成の妙も手伝い、
日常における99の、あるいは1つ、もしくは無限大の「猥雑」がうごめいているように見える。

60年代の新宿をはじめとする過去のモノクロ作品における被写体の面白さは圧倒的に"人"であり、
比較的簡素なホテルの看板や広告など"モノ"は"人"ありきで惹き立つような印象が強いのに対して、
≪東京≫のカラー写真においては、どこか、風俗の看板など"モノ"のインパクトが強烈で、
"人"は"モノ"を前提として成り立っているような印象をどうしても抱いてしまう。

≪東京≫における"モノ"は、知覚過敏の歯茎のように消費社会でうっ血し腫れあがりつつも、
その視覚的インパクトからは最早消費から距離を置かれた寒々しさや滑稽さが漂い、
唐突に街に並べられたオブジェのようにそびえている。
だが、不思議なことに、欲望を狩り取れぬまま過剰に暴走し孤立したはずの"モノ"の姿が、
欲望の主である"人"の姿と相性良く収まっているようにも見える。

そしてこの、"人"が"モノ"に少し背を向けながらも街の光景がリアルな日常として成立たらしめるものこそ、
「猥雑」なのかもしれない、とも思えた。
街のそこかしこからひっそりと見え隠れする"人"のうごめく欲望の有様と、
欲望の矛先とならず立ちつくした"モノ"との距離が、
交わらないことによって違和感なく共存する不自然さが、とても「猥雑」で面白い。

そう、面白い。
こんな不思議な時代に生まれたことを積極的に楽しむべきなのだ、と。





2011年5月12日木曜日

「劇場版神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ」

昔から、聴く音楽は「ロック」とカテゴライズされるものが多かった。

にもかかわらず、異口同音に発せられる「ロックンロール」という言葉にはどこか、

意味がわからなくつかみどころがないのみならず、少なからぬ抵抗をずっと引きずってきた。

この映画を観終わり、ようやくそれに折り合いが付けられた気がする。


映画に沿って自分なりに考えた「ロックンロール」とは、

良い/悪い、ポジティブ/ネガティブ、といった評価の軸で都度価値判断するのではなく、

淡々と流れる物理的な時間をまさに"石が転がるように"嬉しくても悲しくてもとにかく前へ進み、

結果としてぼんやりと見えて来るものを肯定すること、だった。


闊歩する「ロックンロール」という言葉の中にはどこか、上から目線で、

薄っぺらい割には画一的な型にはめることを強要するものを時折含んでいる気がする。

そこに少なからぬ違和感や不信感が今まではあったのだが、

映画を観てそれらは「ロックンロール」と呼ぶ必要はないとわかってから、楽になった。


そして、「ロックンロール」が上から目線ではなく万人のものであるということと、

ソーシャルメディアの隆盛目覚ましいまさにいまの時代を生きていることとの大いなる関連を、

強く実感せざるを得ない。

ソーシャルメディアと映画と言えば、もちろん「ソーシャル・ネットワーク」が浮かぶ。

だが、マーク・ザッカーバーグをモデルにしたアメリカの学園モノラブストーリーにはどこか、

しょせんソーシャルメディアの作り手にまつわる他人事と冷めてしまうところもあった。

それに比べ「劇場版神聖かまってちゃん~」には、ユーザー目線の当事者意識がもたらす、

えも言われぬ感動がたくさん詰まっている。

劇中でバンド「神聖かまってちゃん」自身が何か強烈なメッセージを流すというよりもむしろ、

「神聖かまってちゃん」がライブやストリーミング配信を見る登場人物の集合的無意識に働きかけ、

見ているひとりひとりの「ロックンロール」を覚醒する存在であることは、

遠からず映画を観ている観客にもその興奮が直に伝わり、感動をシェアし得るものになっている。

であるならばやはり、「ロックンロール」という何か1つの画一的なメッセージがあるのではなく、

twitterやFacebookで好き勝手に「なう」「なう」言いながら時間が経てばTLから消えていく言葉の裏側に、

消費されない「ロックンロール」という目に見えない存在を潜在的にシェアしていることに、

希望を見出したい、と言いたくなる。


そこに、ソーシャルメディア全盛のいま、リアルタイムで、

劇場でこの映画を観るべき意義の大きさを強く実感した。





2011年4月24日日曜日

『少女』





アンヌ・ヴィアゼムスキーの映画女優デビューを舞台にした自伝的実名小説。

大人の顔をのぞかせては引っ込めつつ成長してゆく様と、

新人女優から一人前の映画人として自我と居場所を手に入れてゆく過程。

「少女」はこのふたつを、

老紳士「ロベール・ブレッソン」と彼が監督する映画において、互いに絡み合いながら経験してゆき、

その時々に感じた彼女の内面が鏡に映った自分を語るように、赤裸々に綴られてゆく。

ヨーロッパ映画ファンは必読!そうでない方もぜひーー!!


・・・


きれいにまとめようとすると、おそらくこんな感じになるのでしょうが・・・

甘 く 見 て ま し た 。

後半、ページをめくる手が止まり、放心状態になること数分。

他人事で血の気が引き顔面蒼白になったのは、久しぶりです。



再び読み進めたところ、

後の出演作での監督でもあり夫でもあった「ジャン=リュック・ゴダール」との、初対面のシーン。

「ロベール・ブレッソン」との力関係も相まって、コミカルなキャラクターで描かれている。

ようやく落ち着きを取り戻し平静を保てそうだ、ゴダールありがとう・・・

・・・!!

今度は驚きで心臓がバクバク言い始めてしまいました。



そんなひと波乱もふた波乱も強烈なエピソードを交えつつも、

世界のすべてを知り手に入れてしまったような無敵な強さと、

ふと我に返り今も何ら変わりない子供の世界を生きていることに揺り戻されたときの悲しさが、

「少女」の中で行ったり来たりする様子を、

彼女自身の言葉で、包み隠さず、鮮やかに、そしていきいきと描かれるのを見ると、

"高2の夏休み感覚"が去来して、

胸を締め付けられながらも、きゅんとさせられます。


もちろん、告白本や暴露本ではなく、自伝的実名小説。

事実関係や語られていること/いないことの判断はしようもありません。

でも、「少女」が飛び込んだ「映画」の世界が、

ひとくせある個性的な登場人物たちによって、とても魅力的に描かれていて、

読んでいるうちに、「少女」にとっての「映画」が、

人生の過去を顧み現在と未来を考えるための示唆を与えてくれるように思えてくる。

それこそが小説たる所以であり、それでいい、それがいい。そう思います。




2011年4月3日日曜日

「SOMEWHERE」



しばしば女性が男性を評して使う「かわいい」という言葉は、

同性の目からはなかなか実態をとらえにくいものです。

それが、スティーヴン・ドーフ演じるジョニーを通じ、はじめてわかった!

僕がこの映画を観て感動した最大のポイントは、そこでした。


ジョニー(スティーヴン・ドーフ)がオープンテラスのカフェでたたずんでいる姿を見て、

二人組の女性客が「彼、かわいいわね。」と言うシーンが、前半かなり早くに出て来ます。

ここで、ジョニー=「かわいい」と動機づけられると、ソフィア(・コッポラ)の女性監督たる強みが本領発揮。

筋肉質で胸毛も生えた大人の男性がなぜ「かわいい」のか?という命題が、

説明される必要も無く、いつの間にか当たり前の既成事実として証明済になってしまうすごさ!


繰り返しますが、大人の男性を「かわいい」という女性特有の感覚を、

男性の側が感じ取ることが出来るのは、奇跡に近いと言いたいくらい稀なことだと思います。

母性本能と関係があるのか?ないのか?

「ブラウン・バニー」のヴィンセント・ギャロは「かわいい」のか?そうではないのか?

これらは、男性が知ろうと思っても普通はなかなか知ることは出来ないはず。

しかしながら、「SOMEWHERE」のスティーヴン・ドーフは「かわいい」!断言出来ます。


彼の「かわいい」は、背中に悲哀があります。

その悲哀のうちかなりの割合を占めるのが、可愛い娘を悲しませない、ということ。

クレオ役、エル・ファニングの可愛さについては、語るのが野暮です。完璧。

パンフレットのプロダクション・ノートに書かれていた彼女の設定は、なるほどと思いました。




セリフの中に散りばめられたクスッと笑ってしまう小ネタも最高。

たとえば、「ダサいレオタード」「ヴァンパイア」、僕の勘違いでしょうか。


観ていて嫌な気分になるシーンがひとつもなく、すがすがしく映画館を出ることが出来たのは、

この時勢このタイミングで公開され、これ以上を望むことがないくらい、

最高のプレゼントだと思います。





2011年3月1日火曜日

「白いリボン」



おそらく、犯人がわからない奇怪な事件が生む疑心暗鬼と、

ドイツが抱えてきた戦争という暗く深い闇を、重ねて描いているのだと思います。

後者については、僕は日本人でありヨーロッパに生まれ育ったわけではない分、

憶測の域をぬぐえないのは確かです。

しかしながら、こういった歴史的背景云々を抜きに観ても余りある観客を打つ強さが、

十分に詰まった作品だと思います。


断続的に出てくるサディスティックな描写を目の当たりにして込み上げてくる、居心地の悪さ。

これをどこへどう逃がせば心が落ち着くものか、最後までわからぬままでした。

これがもし監督の意図に含まれているならば相当タチが悪いですが、ハネケだけに、十分ありえます。



観る側のこちらも、いつの間にかモラルを逸脱し映画の世界に惹き込まれていたことを、

正直に告げなければなりません。

実際、一番好きなシーンは、ドクターとその娘が夜中にふたりきりで部屋に居たのを目撃された場面でした。



そして、子供達が讃美歌をうたうシーンは、本当に美しかった。

この情景が何かを暗示している、あるいは、それを抜きにして考えたとしても。






2011年2月21日月曜日

「冷たい熱帯魚」

っかつ配給の18禁映画。

18禁の意味は"そっち"ではありませんでした。

血しぶき湧き肉片踊る、大人の娯楽大作映画です。




館内に貼られていた記事で園子温監督は、

「救いの要素は全くないが観終わったあとスッキリする映画を撮りたかった」とコメントされていたのですが、

この言葉に尽きると思います。


実在する事件にさらに幾つかの猟奇的事件をトッピングした上で、

設定を熱帯魚店を営む家族(の感情のすれ違い)に変えて話は構成されています。

まったく救いようがないのを嘲るかのようにスプラッター・ホラー並みに血しぶきが飛ぶ、

逆に言えば、残酷極まりない危ない橋を渡りながらも全く救われない、血も涙も無い話です。

(いや、血はイヤというくらい出て来るのですが…)


では、こんな話がなぜ「スッキリ」するのか。僕は2つの要素が浮かびました。


1つは、コミカルな点です。

話の軸となるキャラクターの行動に最初は目をそむけたくなるものの、

次第に(観る側の慣れも手伝ってか)それが滑稽で哀れに見えてきて、

クスッと笑えてしまう感覚が終わりに近づくほどより敏感になってゆく気がしました。


もう1つは、「救われない」というまさにその点において、です。

熱帯魚店の父が家族の再生を夢見て奔走する姿は話が進むにつれ痛々しく真剣さを増してゆきつつも、

救いようのなさもまた、あろうことかそれに反比例(正比例?)してしまっていました。


そしてラストには大ネタが控えているのですが、

ここで「救われなさ」と「コミカル」が見事に交差して、

エンドロールを「スッキリ」した気分で迎えることが出来るように、話が上手く組み立てられていたと思います。


「世の中そんなうまくいかねーよ!」と希望を完璧に捨てさせられあきらめてしまえば、

そのあきらめの境地が次第にすがすがしく感じてきて、逆にポジティブな気持ちが芽生える、

そんな感じでしょうか。







余談ですが、「紀子の食卓」→「時効警察」と連なる園監督のセルフパロディに思えるシーンもあり、

面白かったです。








2011年1月5日水曜日

快快 「Y時のはなし」







とにかく笑って、笑って、笑って、泣ける舞台でした。




演劇とダンスが融合した舞台は最近でこそ珍しくないですが、

快快の「Y時のはなし」はそれだけにとどまらず、人形劇、アニメ、ゲーム、お笑い、電子音楽、

あらゆる要素(無理矢理ひとことで言うならば"ハッピーになれるもの")を採り入れながら、

伝わってくるハンパない生の感動がまぎれもなく"舞台"であることが、

とてもとても素晴らしくて。




鑑賞後数日間は快快のハッピーなオーラが頭じゅうを覆い尽くし、

他の事が考えられなかった。考えたくなかった。


時代の空気や流行をしっかりとつかみつつ、

ポップでありながら実際はとても前衛的で尖った表現活動をすること。

それを可能にするポテンシャルの高さがとてもまぶしいです。


(2010年11月5日 アトリエ劇研にて観賞)