2007年12月27日木曜日

「魍魎の匣」

京極堂とは何の縁もない僕が
敬愛する実相時昭雄監督の遺作
「姑獲鳥の夏」を知って 早2年。
再び京極堂の門を叩く日が来た。

原作を知らない僕にとって
宮司・古書店主・陰陽師という京極堂のキャラクター設定は
いささか「いかにも」感があって当初大仰な気がしたが
2作品を通じて観て見ると その設定の正しさに敬服する。

「魍魎の匣」は全てにおいて
「姑獲鳥の夏」をはるかに上回る快作であった。

特筆すべきはやはり この作品が持つ
複雑かつ緻密な世界観であろう。
グロテスクで美少女至上主義
戦中戦後の日本を舞台にしたSF
そしてそれら全てを包み込む
京極堂の呪術的で神秘的な存在感。

堤真一 阿部寛 田中麗奈 クドカン 宮迫 マギー
堀部圭亮 荒川良々 笹野高史など
キャストも僕の好みをリサーチしたのかと思えるほど
好きな役者揃い。

久保(クドカン)が「あなたの幻想小説は全て読んでいる」と言うと
関口(椎名結平)が「いや 私のは不条理小説だ」と切り返すシーンがある。
話の本筋には全く影響のない細かなワン・シーンなのだが
この作品の細部にわたった緻密な設定を窺い知れる場面で
個人的には好きだ。

古来 科学と宗教は同じものとして進歩していた。
それが近代以降 切り離されて別の道を歩むことになったわけだが
この作品を観ていると科学が持つ非合理的側面と
宗教が持つ合理的な側面が重なり合い
観ているうちに どこまでが科学でどこまでが宗教なのか
頭の中がかき乱されて分別がつかなくなる。
ここに原作者の意図があるか否かは僕には量りかねるが
娯楽映画としてこの作品が秀逸であるポイントの一つには
なっているのかも知れない。



2007年10月24日水曜日

「追悼のざわめき」

う~ん 期待が大きすぎたかな。
敬愛する”変態芸術家”会田誠や
ナナナンキリコさんが絶賛して
なおかつ「各国税関でストップ!」とか
「映写技師が試写中に嘔吐!」とか
素敵なキャッチコピーがチラシに踊っていたので
こりゃ観ないかんだろう と思ったのだが。

近親相姦 人形愛 傷痍軍人 ルンペン 
奇形 ゲロ グロ カリバニズム
上記のような通常「放送禁止」的なものに
真正面から向き合っている点は
20年前の日本映画としては
かなり前衛的であっただろうとは思う。
でも何となく 
品揃えだけ良くて優秀な販売員がいないデパートのような
印象を個人的には受けた。

いまひとつ解せない点は
これだけ鬼畜のオンパレードが続きながらも
ラストはせつなくてヒューマニズムのにおいが
プンプン漂ってきたところ。
アブノーマルでアナーキーな鬼畜映画ならば
とことん欲望に耽るか
逆にどん底に堕ちるまで残虐になるかの方が
個人的には好みだ。
このへんが映画よりも小説の方が
どうしても面白いと思ってしまう点だ。
さらに言うと 
人肉食べさせたら佐川一政には叶わないわけで
結局事実は小説よりも奇なり という命題が
証明されてしまう。
(それを言ってはおしまいなところはあるが。)

「映画の途中で退席する観客が続出!」とか
言われていたけれど
僕はそんなに気持ち悪さは感じなかった。
むしろ 物足りなさが残った。

2007年9月26日水曜日

「サッドヴァケイション」

予想外に傑作だった。

僕がこれまで青山真治監督の映画を

支持しなかった理由は

長尺にもかかわらずラストにカタルシスを得ない

もどかしさや消化不良な気分にあったのだが

それは当たり前の事だというのが

この映画を観てわかった。


なぜなら

「Helpless」「ユリイカ」は

「サッドヴァケイション」の予告編であり

「サッドヴァケイション」は

「Helpless」「ユリイカ」との3部作の

完結編だったからだ。

正直 青山真治がここまで壮大な映画を撮るとは

思ってもいなかった。

その点を見抜けずに 

青山真治はつまらないと言っていた

自分を恥じたい。


ひとことで言ってしまえば

憎しみを克服して生まれる家族の絆や

家族や他人を超越した温もりといったもの

つまり 愛 だ。

だが青山真治の凄いところは

この一見単純明快な 愛 というものの

獲得の過程では

様々な困難や事件が起こり

本当の 愛 を獲得するにはいくたの困難や事件を

乗り越えなければならなく

そのように苦労して獲得した 愛 だからこそ

尊いのだ という事を

綿密な人物描写によって描いている点にある。

「Helpless」「ユリイカ」「サッドヴァケイション」と

8時間以上の壮大な物語によって

愛の尊さを訴えたかったのだ。


繰り返すが「サッドヴァケイション」は傑作だ。

この点を踏まえて「Helpless」「ユリイカ」を観直して

再度「サッドヴァケイション」を観てみたいと思う。









2007年9月12日水曜日

「新世紀ヱヴァンゲリオン劇場版:序」

「エヴァンゲリオン」という映像作品は
様々な願いで作られています。
・・・
蔓延する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きてゆく心の強さを持ち続けたい、という願い。
・・・
エヴァはもう古い、とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメは
ありませんでした。
・・・
閉じて停滞した現代には技術論ではなく、
志を示すことが大切だと思います。
・・・
「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、
ひたすら立ち上がってゆく物語です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても
一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
・・・ 
(パンフレット 庵野秀明コメントより抜粋)

このコメントが全てだ。

2007年8月24日金曜日

「遠くの空に消えた」

行定勲監督のSF作品。



子どもと大人の違いとは

奇蹟を信じるかどうか

星空を眺めて 純粋に綺麗だと言えるかどうか

いたずらは正義であると思えるかどうか



岩井俊二の「打ち上げ花火〜」を観たときの
胸がキュンとする感覚を思い出した。

エンディングで流れるCoccoの曲に
満たされた気持ちを委ねた。

終わりゆく夏に ありがとう と言いたくなる
内に秘めた少年が顔を覗かせる作品。



2007年8月18日土曜日

「恋愛睡眠のすすめ」

もし夢を見るなら
僕はあの娘の夢を見るだろう

もし夢が叶うなら
僕はあの娘に好きだと告げるだろう

もし夢が現実になるなら
僕はあの娘にふられるだろう

もし夢が夢のままでいられるなら
僕はずっとあの娘を見守り続けるだろう



「夕凪の街 桜の国」

この映画を観るまでは
広島市民にとって原爆とは
忘れられないものだとばかり思っていた。

だが実際は
忘れてしまいたいほど忌まわしく
知らぬふりをしていたいほど関わりたくないものだった。

銭湯で焼けただれた肌を
何事もないかのように無言で洗い流す女性たちの姿に
それは象徴的に描かれていた。

しかしながら そんな語りたくない過去も
広島市民の中では家族というフィルターを通して
否応無しに継承されてゆく。

原爆は 忘れられないもの


ではなく 忘れないものだった。

2007年8月2日木曜日

「アヒルと鴨のコインロッカー」

よくある話だ。
実家が自営業で跡を継ぐだの継がないだのをあやふやにして
仙台にある大学に通うために一人暮らしを始めて
没個性的なスーツ姿で入学式に出席して
バスを待つ間になんとなく友達っぽくなった人と
「牛タン食べた?」なんてつまらぬ会話をする。
引越しの挨拶に「ひよこ」を持っていくと
隣の住人がブータン人だったりする。
実によくある話だ。

よくある話は 突如として 予期せぬ話に変わった。

原作の力だろうか。
この映画は完璧に近いと言っていいほど
ストーリーづくりが上手い。
瑛太は1時間前の瑛太に見えない。

日頃周りの出来事が
すべて見たまま真実であると信じて疑わない人に
是非この映画を観てほしい。
嘘は時として真実を語るという事がわかるはずだ。


2007年7月7日土曜日

LIVE EARTH at 東寺

「不都合な真実」でおなじみ
アメリカのゴア元副大統領が中心となって
全世界で行われたチャリティライブ。
その京都会場へ行って来た。

<RIP SLYME>
出るや否やアウェイ感があったのを察してか
低姿勢なMCが笑えた。
1曲目から「One」で
新曲をはさんで「楽園ベイベー」という
キラーチューン連発はさすがだと思った。
でも たった4曲でおしまい。短っ!

<UA>
RIPとは正反対のスピリッチュアルな雰囲気。
UAの沖縄好きはお母さんが奄美大島出身だからと
今日のMCで初めて判った。
売れ線を全く無視したコアな2曲を披露。
2曲!? さらに短っ!!

<BONNIE PINK>
1曲目が「HEAVEN'S KITCHEN」だったのは
渋谷系世代としては嬉しい限りだった。
途中 僕の後方でRIP SLYMEのメンバーが
観ていたので ちょっと落ち着かなかった。
「A PERFECT SKY」はあえてやらず
「water me」で締めくくった。

<マイケル・ナイマン>
この出順はとても酷だ。
なぜなら 次のYMO待ちで 皆浮き足立っている。
映画音楽好きにとっては生で演奏を聴けるのは
かなり貴重な機会だったが
皆イスに座りだしたり 「長い!」ってぼやかれたり
ちょっと気の毒だった。
でも実際 他の出演者より長かった。
1曲 2曲 3曲 ・・・

<YMO>
機材セッティングのとき
既にスタンディング・オベーション状態。
3人が現れたときは 
音楽の神が下界に舞い下りたような感覚に陥った。
「以心電信」のイントロがなるや否や
大歓声につつまれる。
・・・がすぐに化けの皮がはがれた。
今秋公開映画「アップルシード」のテーマ(新曲)や
教授のソロ曲「War&Peace」になると
観客は一気にクールダウンした。
大半はYMOを懐古主義で観に来ていたらしい。
曲がふたたびおなじみの「RYDEEN」になると
観客は息を吹き返したように元気を取り戻した。
原曲とは全く違う乾いた質感の音がとても心地良かった。
・・・で 予想はしていたが YMOも4曲でおしまい。

アンコールなしでライブ終了。
総括すると 一番満足出来たのは
ひとりだけ7曲もやったマイケル・ナイマンの
ファンだったのかもしれない。



2007年6月18日月曜日

会田誠/山口晃展

学会のついでに
上野で会田誠の絵を観た。
正確に言うと逆かもしれない。

山口晃については
着想は見事でユーモアがあると思うが
あまり好みの絵ではないので
ここでは触れない。

要は 会田目当て ということだ。

「青春と変態」
会田を表すのにこれほど似つかわしい言葉はない。
青春とはエロスの妄想の塊であり
多かれ少なかれ変態の賜物だ。
だが変態とは後ろめたいものではなく
青春という純粋な行為の一部に過ぎない。
会田はこの青春⇔変態の宇宙を
精緻な筆跡で視覚化している。

変態と純粋は視点の置き方の違いに過ぎない。
例えば「滝の絵」という作品。
涼しげな滝のまわりで
スクール水着の女子学生が戯れている。
一見すれば純粋な絵だ。
だが間髪入れず
純粋がエロスを介して変態へと変換される。
股間に食い込んだ水着を手で直す少女
水着を着ずにセーラー服で見学している少女などが
エロス→変態への引き金を引くことになるのだ。

会田と山口のコラボ展の大きな接点は
ユーモアな着想にある。
会田の新作「ヴィトン」「727」。
「ヴィトン」は畑に規則正しく埋まっている
ヴィトンのモノグラムを
田吾作風の日本人が引っこ抜いて
「今年もヴィトンが豊作じゃ~!」と叫ぶ
劇画風タッチの絵だ。
ヴィトン 日本人 といえば
とあるアーティストを連想せずにはいられないわけだが
それを意識したかしないかはともかく
かなり風刺が利いていてインパクトがある。
「727」は東海道新幹線に乗り
名古屋⇔東京間の退屈な風景を眺めたことのある人なら
誰しも目にしたことのある
あの広告看板をモチーフに
淡いタッチでさらりと描いた
ファンタジー調の絵だ。
芸術とは程遠いあの退屈な風景を切り取り
ユーモアを交えて寓話的な世界へ転化させる技巧は
さすがと言わざるを得ない。







2007年6月3日日曜日

Kahimi Karie at 法然院など

借景という言葉の意味が長らく理解できずにいた。

風景を借りるとは いかなる意味ぞ と。

だが今日 ようやくその意味が解った気がした。

思うに借景とは 風景を介して人と繋がる事。

辞書を引けば恐らく 全く別の解釈がされているだろう。

だが僕にとって借景とは この意味でよいのだ。

誰に繋がったかと言えば 自分自身。

ここ数日 頭の中がモヤモヤしていて

自分の居場所が見つからない苦難にあえいでいた。

その答えのひとつが 法然院の緑に満ちた庭園を眺めながら

モリアオガエルの泣き声とともに奏でられる

大友良英 ジム・オルーク そしてカヒミの音楽を聴き

舞い降りてきた。

この場にいること そのものではないか と。

僕が安寧する場は世間から見れば狭いのかもしれない。

だが果てしなく自由に満ちている。

この場で絶命しても悔いはないと思えるくらい

満ち足りた気分に浸る。

この気持ちを分かち合うのは難しいかもしれない。

だが徒に他人に説明するものでもない気がする。


至福のときが終わり 

鹿ケ谷から哲学の道を歩いていると

疎水にほたるが飛び交っていた。

これを目にした瞬間 

先程の借景が確信に変わった。

この景色の素晴らしさに比べれば

大学院で学んでいる事など捨ててもよいと思えた。

本などで学ぶより こうして飛び交うほたるがいる風景を

眺めているほうが よほど人生の糧になる。

そして数日来のモヤモヤから解放された。

僕が求めているもの いちばんほしかったものは

京都で暮らすということだ 間違いない。

今日のような一日は 京都でしか味わえない。

奈良や鎌倉とも違う 何か手ごたえを感じるもの。

そして僕は京都行きを報告したときに言われた

家族と同じくらい僕の事を知り尽くしている人の言葉を

ふと思い出した。

「優先順位を間違えずに がんばって。」

その人の言葉は もはや予言としか思えないくらい

今日の僕の心持を言い当てていた。


この充実感を謳歌したくなり

そのまま三条方面の街へ出てみた。

人混みの中を闊歩したかった。


そういえばお腹がすいたな ということで

久方ぶりにハマムラへ入った。


満席なのに どうやらバイトのひとりが休んだらしく
店内は店員がピリピリして殺気立っていた。

ホールと厨房の話が噛みあわず 怒号が飛ぶ。

右から店員の怒号が聞こえる。

僕はそれを左へ受け流す。

何だかよくわからないが

活気があって 嬉しい気持ちにさせられた。

注文したチャーシュー麺の麺が茹ですぎだったのを

帳消しにしてもよいと思えたくらいだ。


空腹が満たされると 

あらゆる欲が消えたかのような気分になったのを確認して

家路についた。



2007年5月23日水曜日

「黒蜥蜴」

僕が1968年に生きていなかった事を唯一悔やむのは

原作 江戸川乱歩 脚本 三島由紀夫

監督 深作欣二  主演 美輪明宏 のこの映画を

リアルタイムで体験出来なかった事だけだ。


深作は黒蜥蜴(美輪)をいかにして撮れば

妖艶にスクリーンに映るかを知っている

唯一の理解者であり

乱歩×三島という化学反応は

明智小五郎と黒蜥蜴を

恋愛悲劇のヒーロとヒロインに変化させた。


黒蜥蜴は執拗に迫り犯罪を暴こうとする明智を恐れ

逃れようもなく追い詰める明智を愛した。

明智に見つかりたくないが 会いたいという

矛盾した感情に引き裂かれる。


明智は陰鬱そうな表情で黒蜥蜴を淡々と追い詰めながらも

いつしかその妖艶な魅力にとりつかれる。


そして明智と黒蜥蜴は

知略を尽くした戦いの舞台へ上がることになる。

明智は戦いに勝った。

だが考えようによっては

明智の脳裏に忘れられない爪痕を残した黒蜥蜴こそ

真の勝利者なのかも知れない。


滋賀県にある小さな映画館で上映後に起こった拍手は

物語のクールなたたずまいとは対照的に

とても暖かなものであった。




2007年4月19日木曜日

「東京タワー」

映画館ですすり泣きが聞こえたのは久しぶりだ。

松尾スズキの脚本がどれだけリリー・フランキーと
相性が合うかに注目して観たが
まさに 水魚の交わり だった。
リリー・フランキーという素材を活かしながらも
松尾スズキ的な笑いが随所に盛り込まれていた。
「10円玉のニオイ」なんて
古くからリリーを知っている人じゃないとわからないはず。

だが 水魚の交わり という喩えをしたのは
笑いの部分だけではない。
オダギリ・ジョーがまんまリリー・フランキーだった。
つまり 松尾スズkはリリー・フランキーが
どういう人物かを熟知した上で
脚本を書いたに違いない。

フジテレビで放映されたドラマ2本も悪くはなかったが
リリーではなかった。

だが映画がドラマの比じゃないくらい優れていたのは
病床のオカンの姿だった。
後半は観ているのが辛くなるくらい苦しそうな演技で
それはつまり 死んで楽にさせてあげたいという気持ちと
死んでしまったらオカンにはもう会えないという
ジレンマから来るリリーの葛藤の眼差しでもあり
死にたいくらい苦しいけれど息子の為に1日でも永く
生きていたいというオカンの愛情表現でもある。

後半は涙腺が緩みっぱなしだった。

福山雅治のエンディングテーマも
映画を観て書き下ろした曲という事もあって
映画の世界を上手く保った曲だったように思う。

原作のファンにもおすすめできる内容だった。




2007年4月18日水曜日

V∞REDOMS/ソニック・ユース at なんばhatch

授業終わって急いで大阪へ移動。
意外と早く着いて一安心だった。

ボアは最近リズムをしっかり作って
聴かせるバンドっぽくなっている気がする。
昔ちいさなハコで観ていた頃は
宇川直宏の映像とか使って
怪しげな新興宗教のような閉塞的なノリがあったが
最近はいい意味で聞きやすい。野外向きかも。
ヨシミちゃんてタフだなと思う。
ほとんど休みなくドラムたたくスタミナは
X JAPANのYOSHIKI並みなのでは?
楽しめたが 強いて言えば
EYEが大人しかった(といっても絶叫していたが)のが
物足りなかった点かな。

長いステージチェンジが終わって
ソニック・ユース登場。
サーストン・ムーアはやはりデカい!
でも僕はほとんどキム・ゴードンしか
見ていなかった。
キムはゴールドのラメのワンピース(X-girl?)姿で
ボーカルを務める曲になるとノリノリで踊りまくる。
この踊りがなんともかっこよくもあり かわいくもあり。
お前はシンディーローパーか!ってくらい
ステージ上を駆け回りながら踊るのだが
結構「ガキの使い」の板尾の嫁の動きと紙一重だ。
美人でスタイルがいいからかっこいいのだろうな。
あの踊りは日本人がやるとダサダサな気がする。
本番でノリの良い曲を中心にやり
逆にアンコールでマニアックな曲をやっていた気がする。

とにかくソニック・ユースのライブは完璧だった。
僕が今まで観たライブの中でベスト3に入ると思う。
正直ボアの事 後半忘れてた。
そのくらい素晴らしかった。

次の来日公演はいつになるかわからないし
その時自分は何をしているかわからないが
ズル休みしてでも観に行くと思う。
ライフワークにリストアップすることにした。




2007年4月10日火曜日

BECK at ZEPP OSAKA

ライブの満足度というのは
ステージにどれだけ予算がかけられているかは
関係なく 演出 つまり センスに尽きる。
今日BECKのライブを観て あらためて再認識した。

冒頭から「LOSER」のイントロが鳴り
会場が沸く。
だがステージ上に現れたのはBECKではなく
BECKのパペット。
そのままパペットがワンコーラス歌い
2コーラス目に入った途端
本人登場。
この時点で鳥肌が立つ。

その後「DEVIL'S HAIRCUT」「THE NEW POLLUTION」と
ベスト盤が出たらこの曲順になるのではという順番で
代表曲が惜しげもなく披露されてゆく。
「MIXED BIZNESS」「NAUSEA」「QUE ONDA GUERO」・・・
シングル曲と新作からほぼ交互に演奏。
この間もずっとパペットがステージ中央で
踊っている。

今回のツアーはとにかく力が抜けている。
「SEXX LAWS」に至っては
わざとはずした歌い方をしたり
BECKが曲中バナナを食べたりして笑いを誘っていた。

ニューウェーブばりばりのアレンジの
新作からの曲を経て
「SEA CHANGE」から3曲を弾き語り。
普通ならここで会場はBECKひとりに集中するはずだろうが
バンドメンバーがBECKが歌うとなりでテーブルを囲み
宴会じみたことを始める。
「SEA CHANGE」といえばBECKが内省的になっていた頃に
作られた問題作で 当時のツアーも映像にロール・シャッハ
テストの画像を映しながら淡々と歌い上げるという内容で
あったが 今回はそれを茶化すかのような演出。
そして最後はBECKとバンドメンバーがテーブル上のものを
楽器にして歌うという和やかな終わり方だった。

そしてもの凄かったのがアンコールの演出。
会場大爆笑。
ひょっとして大阪限定のネタなのか。
(少なくとも日本限定ネタだろう。)
アンコールといえばそのミュージシャンの
最も代表的な曲のひとつを演奏するのが定番だが
BECKともなると そんな次元を軽く超えていた。
(内容はライブ観た人だけのお楽しみということで。)

「WHERE IT'S AT」「E-PRO」でアンコール終了。

BECKはやはり芸術家肌だな と思った。
音楽 映像 パペット アンコール
五感をフルに活用させる名演だった。



2007年4月4日水曜日

「アルゼンチンババア」

面白い/面白くない のどちらでもなかった。
昔はよく よしもとばななの小説を好んで読んでいたので
ちょっぴり肩透かしをくらった思いがした。

身近な者の死をどう乗り越えるか というテーマには
大いに関心があるが
ストーリーの中から得られるものは
僕にとっては特になかった。

ワンシーンだけ興味深かったのは
妻と母に先立たれた夫(役所公司)と娘(掘北真希)が
死ぬ間際の心境を告白する場面。
夫は 愛する者の喪失から逃げ出したかった と言い
娘は 家族一健康な母が衰えていくのを見かねて
死んで欲しかった と言う。
このふたりの正直な気持ちには共感できた。
自分が同じ境遇に立たされたならば
同じような気持ち 同じような行動を
とるかもしれない と。

だが そのような重いテーマを
アルゼンチンババアという
今風の言葉で言えば”都市伝説”化した
ひとりの人間との触れ合いによって
乗り越えてしまうのだが
彼女のどういう点がそうさせたのかが
全くつかめなかった。僕が鈍感なだけかもしれないが。

どちらかといえば
「幼い頃にアルゼンチンババア的な人っていたな。」
という 話の筋とは関係の無い事を思い出した。



2007年3月30日金曜日

「フリージア」

久々に良質な日本のバイオレンス映画を観た。
「バトルロワイヤル」以来か。
さすがは「鬼畜大宴会」の監督作品だけある。

個人的に良かった点は
初期の北野武映画にも通じるような
勧善懲悪ではない 善悪を超えてかつ感情を排した
クールなバイオレンスさだ。
特に主人公ヒロシ(玉山鉄二)の演技が良い。
人の話を聞いているのかわからないような
無感情で不感症でありながらも
射撃の腕だけはもの凄い腕を持っているという
難解なキャラ設定を見事にこなしている。
「手紙」「NANA」と今回で
彼はやはりいい役者さんであることを確信した。

起承転結やオチのようなはっきりとしたものはなく
むしろ謎が残ったまま映画は終わるのだが
ラストのヒロシとトシオの西部劇まがいの決闘シーンは
とても男らしくて 美しかった。
時間にして1秒。
この一瞬のために2時間があったと言っても
過言では無いだろう。

原作は読んでいないので知らないが
脚本は相当書き換えられたものらしい。
原作を知る・知らない問わずおすすめしたい。
観終わって何だかスカッとした。



2007年3月14日水曜日

「LUNACY」

ヤン・シュヴァンクマイエルの新作「LUNACY」を鑑賞。

観終わった後 しばらく身動きがとれないくらい

圧倒されてしまった。


秩序と無秩序いう相反する二者を提示して

そのどちらにも本来の自由は存在しない という

救いの無さがこの映画のとても恐ろしいところだ。


ヤンは冒頭で

「これはホラー映画です」と

語りかける。

とは言っても幽霊が出て来るわけではない。

たとえるなら”精神的ホラー”とでも呼ぼうか。


まだこの映画を冷静に解釈して

文章にまとめるだけの余裕が無い。

それくらい衝撃的だったからだ。


1500円近くする高いパンフレット(というか本)を

衝動買いした。

これを何度も読み返して

もう少し考えをまとめてみたいと思う。


オススメの映画と言うよりは 観るべき映画。



2007年3月7日水曜日

cornelius 2007/3/4 金沢Eight Hall

季節はずれの風鈴が鳴り響く中

整理番号「69番」という

ファンにとってはある種プラチナチケットを

握り締めながら 開演を待つ。

風鈴とフランク・シナトラなどのムード歌謡が

奇妙な一体感をなすBGMは

何故か遠い夏を思わせる趣。


時計が午後7時を過ぎた頃

会場が暗転し

「THE FIRST QUESTION AWARDのテーマ」などを

コラージュしたSEが鳴り響く。

会場は一気に活気づいた。

お約束の「こ・ん・ば・ん・は」(ご当地バージョン)で

笑いを誘う。


そして 幕が上がった。


全員おそろいの白シャツ。

そして全員黒髪!金髪女性ドラマーのあらきさんまで!


序盤の「Breezin'」~「Wataridori」~「GUM」という

セットリストはSSTV「中目黒テレビ」で見たのと

同じであった。「Wataridori」はCDで聴くよりも

ギターの音が全面に出ていて

GROOVISIONSの映像に躍動感を与えていた。

「GUM」のギターソロがカッコイイ。

演奏後に思わず「小山田くん若い!」という

ファンの声が漏れる。(メンバー苦笑い。)

そもそも「~くん」付けで呼ぶ人に対して

「若い!」という実際は若くない人に使う形容詞を

付ける事は矛盾しているわけだが

小山田くんを評するには極めて的を得た言葉だと思う。

Kahimi Karieさんもそうだが

音楽的にはものすごく成長しているにもかかわらず

見た目は何故あんなに若いのか?

「38になりました(笑)」と小山田くんはさらっと

答えていたが こんな38歳なかなかいないかも。


LIVEの詳細を記述しようと思ったのだが

まだツアーは続行中でこれから見る人も多いので

ネタバレしないように書かないことにする。


僕はcorneliusのツアーは国内に関しては皆勤賞だが

今回のツアーがいちばん充実していたと思う。

APEやアニエスのボーダーを着ていた頃のファンにも

楽しめる内容だった。

(ごく少数でむしろ逆だとは思うが)

一部「point」以降のCorneliusはつまらないと言う人は

是非生で見て聴いて欲しい。

考えを間違いなく改めるであろう。




2007年2月26日月曜日

Kahimi Karie at同志社大学

クラシックコンサート風の舞台と

規則正しく番号が刻まれた座席を目にし

立って観るべきか座って聴くべきか

究極の選択に迫られる。

だが悩んだのも馬鹿馬鹿しい位に

カヒミが登場すると空気が変わった。

明らかに 座って聴くべし オーラだった。


演奏が始まって音のみずみずしさに驚く。

大友良英の鉄臭くソリッドなギター音と

ウッドベースやハープの音が

同列に並んでカヒミの声の下地をつくる。

加えて 音そのものがはっきりクリアに聞こえる。

カヒミがペットボトルのフタを開ける音まで。

その時 もしや と思ったが

カヒミのMCで事実であることがわかった。

エンジニアでZAKが参加していたからである。


とはいえ カヒミファンじゃなければ

結構辛い内容だったことも認める。

音が良い意味で心地よく温かい感じなので

曲に集中しなければ眠くなる雰囲気だった。

実際カヒミもMCで「東京で1/3くらい寝ていた」と

どう解釈してよいのかわからないコメントを

していたくらいだ。

しかし裏を返せば その温かい心地よさに

波長が合えば

今目の前で創り上げられているものが

いかに美しいものであるかを知り

五感を働かせて空間にある全てを感じたくなる

質の高さだった。


アルバム「NUNKI」をそのまま曲順通りに

演奏していたら つまらなかったかもしれない。

だが予想以上にライブアレンジがかっこいいのと

往年のファンには懐かしい「DAVID HAMILTON」や

(この曲のライブアレンジは最高だった!)

カヒミ自ら「好きな曲」と断言する「kinski」などを

随所に散りばめる工夫が功を奏した。


カバー曲2曲には驚かされた。

まずはバカラック。

バカラックといえば渋谷系最重要人物というべき

シンガーソングライターだが

今のカヒミがバカラックを演奏するのは意外だった。

渋谷系時代には洋服のような存在だったバカラックが

今やカヒミの体液と化している証拠なのかもしれない。

ずっとカヒミを聴いてきて良かった と思えた。

(とはいえアレンジを民族音楽風にするなど一筋縄ではいかないのが凄いところ。)

もう1曲ははっぴいえんどの「風来坊」。

しばし動揺を隠せなかったが

全くカヒミ色の無いこのような曲をカバー出来るのは

カヒミ自身のオリジナリティが確立された所以であり

大人の余裕を感じた。

(この曲は細野晴臣のトリビュートアルバムに収録されるらしい。)


カヒミはONJOや菊池成孔のライブで場数を踏んで

ライブを楽しめるようになったと言っていた。

失礼な言い方かもしれないが

たしかに歌の表現力が年々向上している気がした。

本人がライブを楽しんでいたせいか

MCで「次が最後の曲です」と言ったあと

お客さんが無言でシーンとしていたのに驚いたらしく

カヒミがいきなり吹き出して笑った。

恐らくカヒミ本人のリラックス度と

観客のカヒミを神聖なものとして見る眼差しとのズレが

ちょっとしたハプニングを生んだに違いない。


「trapeziste」ツアーから3年以上経つ。

前回のツアーがイリュージョン的な音と演出で彩られた

人工的なものであったのに対し 

今回はミニマムかつナチュラルな雰囲気だった。

アンコール前の最後の曲「You are here for a light」は

地平線から太陽の光が徐々に差し込むような情景を連想させ

あたかも遠い世界にトリップした僕たちを

現実の世界に引き戻してくれるような

素敵な1時間半を象徴する曲であった。 




2007年2月13日火曜日

「エコール」

「カルネ」「カノン」「アレックス」で

パリの汚くてアンダーグラウンドな一面をフォーカスし

その焦点に潜むわずかな純粋さに救いを求める映画監督

ギャスパー・ノエの公私にわたるパートナー

ルシール・アザリロヴィック初の長編映画。

(注:上記のギャスパー評は僕の勝手な解釈なので

 異論のある方にはあらかじめお詫びします。

 ついでに言えば「カルネ」と「カノン」は大好きですが

 「アレックス」だけは苦手です。

 良さがわかりません。)


結論を急げば ギャスパーの映画より好き。

背景だけ簡単に触れておくと

外界から遮断された森に陰鬱とした建物がそびえる。

そこは6歳から12歳までの少女だけが学ぶ学校で

厳しい規則に従い 生物やダンスのレッスンが

日夜繰り広げられる。

新入生は毎回棺桶に入れられて運ばれて来るのだが

同様にしてイリスというひとりの少女が

運ばれて来たところから

物語は始まる。


察した方もいるかと思うが

内容は究極のロリータ映画だ。

ギャスパーの映画では血(生理)や性行為によって

エロスが直接的に描かれているが

ルシールは逆に 

徹底的に無垢な少女の純真さにこだわることによって

寓話的なエロティシズムを表現するのに

成功している。


少女たちは皆オーディションで選ばれたそうだが

とにかく主役のイリスが何とも言えずかわいい。

決して美少女過ぎず 

歯も発育途中でところどころ抜けている。

そしてカメラの前で愛くるしい表情や不安に満ちた目

上級生にいじめられて泣き叫んだりする

そのひとつひとつがいとおしい。

キューンと来る。


そのイリスの良き世話役であり

大の仲良しである最上級生ビアンカが

学校を卒業するところで

物語は終わる。

学校の外にある世界とはどんなところか

自由となったビアンカはどう生きるのか

エンディングまで目が離せなかった。

ラストは案外 予想したものに近かったが

逆に予想通りでホッとした気分になれた。



とにかく 美しい!




2007年1月23日火曜日

「不良少女モニカ」

初期ゴダールなど

ヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えた

イングマール・ベルイマン監督の代表作

「不良少女モニカ」をDVD鑑賞。


なるほど。

大人になることを恐れ

労働を拒絶し

恋におちた男女が繰り広げる逃避行劇は

車とボートという乗り物の違いはあれ

「勝手にしやがれ」っぽい。

(もちろんゴダールの方が

 部屋にポスター飾っても恥ずかしくない

 スタイリシュな映像に仕上げている点において

 勝ってはいるのだが。)

その後モニカが妊娠した事を機に

街に戻り

結婚式を挙げ

普通の暮らしを始める。

ここでハッピー・エンドかと思いきや

ここからが「不良少女」という

タイトルの所以。

子育てを夫に任せっきりで

家賃のためのお金で放蕩を繰り返す。

結局 夫がキレて離婚し

子供を夫が引き取って別れるのだが

この結末にはお互い生まれ育った

家庭環境が糸を引いている。

夫は幼くして母を亡くし

家族愛に飢えていた。

一方モニカは下町の賑やかな家庭に育ち

息苦しい思いをしていた。

そしてお互い自由を求め 恋におちた。

だが夫の自由が自分の家庭を築く事で

あったのに対し

モニカの自由が何事・何人にも縛られない

生き方を追求する事だったため

お互い思い描く自由が異なるのを理由に

それぞれ別の道を歩むことになる。


後半でモニカがカメラ目線で

1分くらいじっと睨み付けるシーンが

かなり怖い。
悲しみと絶望に満ちた眼差しで

カメラを凝視するその目は

観るものに恐怖感を抱かせる。

このシーンを観るだけでも価値があるのでは。

2007年1月22日月曜日

「それでもボクはやってない」

周防監督が言うとおり

「痴漢犯罪の冤罪」ではなく

「日本の刑事裁判制度の問題点」が

テーマとして描かれた

濃密な映画だった。


では「日本の刑事裁判制度の問題点」とは

何か。

主人公(被告役) 加瀬亮の台詞に

それは象徴的に表されていた。


「裁判とは真実を追究する場ではなく

 状況証拠や目撃証言をもとに

 有罪か無罪かを結審する場である」
       (筆者による意訳)


つまり 裁判における「真実」は

被告人にしか知り得ないという事であり

判決が「有罪」か「無罪」かという判断は

100%「真実」を語りうるものではない

という訳だ。


このことをさらに拡大解釈すればこうなる。


日本は法治国家であり

法の下の平等が保障されている。

そして国民は その法というルールを基に

日々暮らしている。

その法治国家 日本において

争いごとや犯罪は法を司る司法が判断を下す。

だが司法があくまで法の下に平等であるという

厳密なルールに従い意思決定を行う為には

状況証拠や目撃証言という

「客観的」な判断材料ももってしか

人を裁く事が出来ない。

そしてこの事は

司法判断にわずかばかり誤審の可能性を残す

余地があるという欠陥を否定し得ない。


映画で描かれていた「冤罪」のみならず

逆に疑わしき人が

証拠不十分で不起訴になる場合にも

同様の事が言える。

法の下に平等である事と

「真実」は必ずしも一致しないというジレンマが

この映画では緻密かつ克明に描かれている。


判決のシーンで息を飲んだ。

最後まで「有罪」か「無罪」かわからない展開に

緊張しながら 

じっとスクリーンを見つめ続けた。

2007年1月20日土曜日

「マリー・アントワネット」

世界史の教科書を投げ捨てて

3年の月日胸にしまい込んでいた

"ソフィア・コッポラ"という名の

美術の教科書を

みたび開く時が来た。


ギロチンではなく

ベルサイユ宮殿の割れたシャンデリアを


民衆が炊く革命の松明ではなく

フェルゼン伯爵との恋の炎を


百合の花畑を

野いちごを頬張る唇を

甘いケーキを


物質/精神という空虚な二分法を超え

ただスクリーンいっぱいに広がる

いとおしい全てのものを

我々は肯定すべきなのだ!

2007年1月16日火曜日

「LOFT」

「ミイラ取りがミイラになる」

という言葉がある。

この映画はそれを映像化する為に

黒沢清がメガホンを取った

サスペンスだ。

(ホラーという気はしなかった)


冒頭から中谷美紀が

黒い泥を口から吐き面食らう。

結局このシーンが

エンディングになって意味を持ち

話の辻褄が合うことになる。


しかしながら そこに行き着くまで

話はあっちに行ったり

こっちに行ったりする。


あらすじを簡潔に述べると

作家 中谷美紀がスランプを機に

編集者 西島秀俊の紹介で

田舎の廃墟に引越す。

そこで 千年前のミイラを持った

人類学者 豊川悦司に出会う。

そのミイラには永遠の愛の呪いが

かけられており

ふとしたことでそのミイラを

預かることになった中谷美紀に

怪奇現象が起こるようになる

・・・といった感じだ。


mixiの書き込みを見ると

面白くないという意見も多い。

でもそれは話の筋が掴めていないか

この映画を恋愛やホラーとして

観ているからではないか。

脚本が練られていて 

見ごたえのある佳作だと思う。

2007年1月13日土曜日

「パビリオン山椒魚」

好きだな こういう映画。

「シュール」と言えばどこかカッコよく

聞こえるが

ストーリー性がなく 小ネタ満載で

淡々と進んでゆく感じ。

それでいて 深いかと言えば

そうでもない。

この中身の無い

空洞な感じがとても心地よい。

「イン・ザ・プール」を見た時の感覚に

ちょっとだけ似ているかもしれない。

(あの映画もオダギリジョーだった)

でもどこかしかインテリジェンスな

匂いがするのがまた不思議なところ。

菊地成孔の音楽はドンピシャだった。

世間的な評価は二分しているらしいので

割引の日とかに見て

リスクヘッジした方がいいかも。

僕は 好きだな。

2007年1月10日水曜日

「紀子の食卓」

「あなたは あなたの関係者ですか?」

全編通して語られるこのモノローグは

自分という存在の確かさの真偽を

観客に問いかける。


自分という存在は

他者とのコミュニケーションによって

経験値を積み 形成されるものだ。

そして現代社会において

この自分形成の場の右翼が家族

左翼がインターネットコミュニティだ。

前者は土着的・保守的であるのに対し

後者は都市的・急進的だ。


主人公・紀子は

保守的でいい子を演じさせられる「家族」に

嫌気がさし ひとり東京へ家出する。

そこで紀子はネットで知り合った

「上野駅45さん」(女性)と出会い

彼女が主宰する「家族サークル」へ

身をおくことになる。


妹・ユカは

そんな姉・紀子の後姿を追いながら

自分探しを始め

やがて紀子と同じ「家族サークル」にたどり着く。

二人の娘を東京に奪われた父は

妻の自殺を機に 娘を取り戻そうと身辺操作し

ついに「家族サークル」の存在を知る。


そしてついに

「家族」vs「家族サークル」の闘いが始まる。

・・・


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「あなたは あなたの関係者ですか?」は

同じ園子温監督の「自殺サークル」などにも

共通し根底に流れるテーマらしい。

(「自殺サークル」は見ていない。)

ラストはいわゆるハッピーエンドというものとは

やや趣が異なる 独特のストーリーだった。

監督自身「挑発」という言葉で指し示すように

数あまたある 心温まる映画とは

対極に位置する

好き嫌いがはっきり分かれる作品だと思う。