柴田元幸さんの翻訳を読むたび
海外文学を翻訳で読むことは作家の魅力を半減させるという議論が
如何に不毛であるか
海外文学を翻訳で読むことは翻訳者を選ぶことが
如何に大事であるか
この2つにおいて
海外文学の翻訳を読むことの楽しさを知ることが出来ます
『文藝』2009年春号高橋源一郎さんとの対談の中で 柴田さんは
「『翻訳』するという行為を視覚化してみると、
ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。
壁の向こうの庭で何かおもしろいことが起きていて、
一人が登って下の子供たちに向って壁の向こうで何が起きているか報告する、
そういうイメージなんです。」
「・・・自分の翻訳はオリジナルに近づける努力は最大限しますけど、
他人の翻訳については原文と合ってる合ってないって
そんな重要じゃないなと思うんです。
下にいる子供たちが(喜べばいいと)それでいいと思ってるんです(笑)」
と おっしゃっています
つまり翻訳者の役割は
原作の面白さを的確に伝え 読み手それぞれに個々の面白さを見出してもらうこと
というのが柴田さんのお考えで
僕はそれに共感すると同時に
アメリカ文学というフィールドで柴田さんご自身が率先して実践していることを
とても喜ばしく思います
レベッカ・ブラウンの名作 「私たちがやったこと」では
"安全のために、私たちはあなたの目をつぶして私の耳の中を焼くことに合意した"
という カフカ「変身」にひけを取らないほどインパクトが大きな書き出しと
中盤の
"私はあなたと一緒にいることが嬉しく、
あなたに会いたがっている人たちとあなたが 一緒にいたがらないことが嬉しかった"
そして 衝撃的なラストを綴る
"何があったのか私がなぜ言えないのかも、
私たちがやったことを私がなぜうまく言えないのかも"
印象的なこれらのフレーズがどう組み立てられ 物語として成立するに至るか
それは原作の面白さであるのと同じくらい
翻訳者による面白さの引き出し方の手腕にかかっていることを意味します
本作はそれが見事に結実した格好の例です