2009年12月21日月曜日

「Inglorious Bastards」

タランティーノがナチスを題材に扱った最大の目的は

「民族の祭典」などで映画(芸術)と政治の関係について物議をかもした

リーフェンシュタール

ナチスの亡霊(より具体的に言えばゲッベルス)から解放することで

映画(あるいは芸術)は何者からも縛られない自由で独立したものであるということを

高らかに宣言したかったのではないでしょうか

その証拠にこの映画がバスターズとレジスタンスによるナチス打倒という勧善懲悪が

メインテーマではないことは

"第一章"におけるハンス大佐(クリストフ・ヴァルツ)と

"第二章"におけるレイン中尉(ブラッド・ピット)が

案外似たり寄ったりな部分を持っていることを最初に見せつけておく構成に

ほのめかされていて

(とはいえ復讐劇に勝ち負けは当然つきものでそれは"第五章"できっちりと描かれています)

こういう言い方は語弊があるかもしれませんが

善悪を超えたさらに高いレベルを到達点に置いている意気込みが

ひしひしと伝わってきました

(・・・なのにエンターテイメントというところがこれがまたすごい!)


ナチスの没落やレジスタンスによるナチへの抵抗というあらゆる作品を観てきましたが

レジスタンスについては"多勢に無勢"ながら果敢に正義を貫くヒロイックなもの

ナチスについては"盗人にも三分の理"的なもの

いずれも小さなカタルシスと大きなモヤモヤが残るものが多かったのが正直な感想です

そこをタランティーノはいわばヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」に

マフィアとウエスタンを乱入させ

スクリーンに穴があくくらいマシンガンとライフルで撃ちまくったような爽快感があり

よくぞやってくれた!という思いで一杯です

これはフィクションがノンフィクションに勝利した貴重な映画だと思います


携帯のアンテナが一本もたたない薄暗い地下室のような劇場ではなく

壁一枚隔てたすぐ隣のスクリーンで子供向けアニメ映画が流れる明るいシネコンで

こんなマニアックな映画を豪華なキャストと莫大な制作費を掛けて作ることが許されるのは

マニアックさを脳みその中でエンターテイメントに再構築することが出来る

タランティーノの才能以外の何者でもないでしょう

同時にこのタランティーノの脳内エンターテイメントは

尋常ではない映画知識を蓄えた部類の映画オタクかつ映画好きであるタランティーノが

映画オタク・映画好きとして面白いと思った妄想を具体的に形にしたものに

他ならないわけですから

結局のところ映画好きが100%面白いと思ったものを外さず映画として撮るという

ごく当たり前のことながら実は意外と実現されていないことと真剣に向き合い

結果として実を結んだ

ハリウッドの宝だと思います

鑑賞後この人がハリウッド映画をひとりで背負っているのでは?

と思えてしまったくらい

タランティーノはほんとに心底映画好きで映画を愛してるんだなと痛感し

甚く感動させられました


劇中でデヴィッド・ボウイによる映画「キャット・ピープル」の主題歌

"Cat People (Putting Out Fire)" が印象的な場面で使用されていますが

熱狂的なボウイ信者から"イタロ・ディスコ?"と苦汁を飲まされた不遇な時期の曲が

これほど格好良く響くとは夢にも思わず大いに改心させられる思いがしました

そう聞こえるようにお膳立てしたタランティーノの音楽センスに脱帽です





ナチスの亡霊を退散させる映画の重要な場面で使われている

"Cat People (Putting Out Fire)" が

"シン・ホワイト・デューク"というキャラクターを演じたことがナチスとの関連性を疑われ

"ベルリン三部作" という内省的な方向に走り

"スケアリー・モンスターズ"を経て再びまぶしいスポット・ライトを浴びるちょうど過渡期に

デヴィッド・ボウイが歌った曲であるというのは

何とも出来過ぎた話ですね