2009年3月21日土曜日

「フィッシュストーリー」

意外だった

観終わった後 いや観ている最中既に
伊坂幸太郎作品の映画化という背景はどこかへ消えてしまい
代わりに 斉藤和義が書き下ろした「fish story」という曲に
インスパイアされ創り上げられた話のような思いで観ていた

斉藤自身

「"小説なのに音が聴こえてくる"
 そんなことを伊坂さんと話していました。
 (中略)今回書き下ろした楽曲は
 自分の中に聴こえてきた音を具現化したもので・・・」

と語っており
なおかつ 斉藤和義の音楽に影響を受け
小説家に専念した経緯がある伊坂であるがゆえ
タマゴとニワトリのごとき話ではあり
どこが伊坂でどこが斉藤か明確に区分出来るものでもなく
言わば合作・共作のようなものと言えなくもない

ただ原作を読んで感じた時空を超え細く・長く・強く人々が繋がる
伊坂ワールドの真骨頂と
「fish story」という日の目を見ず黙殺されていた早すぎた名曲が
未来において地球を救うきっかけとなるという映画の脚本は
似ているようで全く同じものではない感じがした

映画の脚本は原作の意図からズレない範囲内で
意外と大胆に書き換えられていて
結果 原作と映画に於いては 感じる部分に違いが多かった

違う印象を受けた大きな理由のひとつに
原作には

"正義の味方にとって大事なのは肩書きや職業ではなく 準備だ"

という物語のカギを握る重要なキーワードがあり
このキーワードが人とのつながりに於いて重要性を帯びているのに対し
映画にもこのキーワードはせりふとして実際に出ては来るとはいえ
つながる要素として強く作用している言葉にはあまり感じられはしなかった

映画にはその物足りなさを埋める要素として
「fish story」という曲自体がとても強く全面に出されており 
過去 現在 未来 いかなる場面でも強く印象的に耳に残る
実に耳に残る 今も頭にこびりついて消そうと思っても消えない
深夜に珍妙なCMソングを聞いてしまい 
それが翌日働いていても消えないのと同じくらいに消えない
そういう意味では「fish story」という曲によってこの映画はつながっていると
言えなくもない

だが そのつながりかたのニュアンスが
原作のどこか謎めいていてファンタジックな感覚というよりもむしろ
「fish story」を作った"逆鱗"というバンドが
それぞれの時代において爪痕を残す
言わば ひとつのバンドの生きた証を綴るという感覚が
強かった

「音楽映画のようになってしまうとつまらなくなりそうで嫌だな」と
観るまでは思っていたが
逆に観終わった後の感想としては 
「音楽映画として観てむしろ良かった」と思った

「アヒルと鴨のコインロッカー」で感じた
中盤で景色がガラッと変わって見えるような"オチ"的要素は
今回も無い事は無く
それはエンディングぎりぎりまで引っ張っていた
"オチ"は原作と違いはするものの趣旨は類似したものであり
加えて 伏線がわりとわかりやすく描かれていた為
あまり衝撃的に感じるものではなかったのが正直なところだ
(映画だけを観たらしき客の会話に聞き耳をたててみたが 
ほぼ同様の事を言っていたように聞こえた)

だが観終わって考えてみると
そもそも「アヒル~」と並列にして比較することにあまり意味はなく
音楽に青臭く嘘がつけない人々が持つ純粋な情熱を
受け止めることのほうが 
よほどこの映画に真摯に向き合う姿勢として大切な気がした

原作が持つ寡黙なのに豊潤なあの魅力は明かに欠けていて
過剰気味に饒舌で冗長な感は否めなく
そこは映画の魅力を損ねる要因になっているように感じ取れ
正直気にはなった

だが最後まで観うるものであったのは
「fish story」をレコーディングするシーンに
伝わるものがあったからではないか?と思う
(ちなみにこのシーンは原作をほぼ忠実に映像化している)

前述した通り「fish story」という曲が耳にこびりついて
頭から消えない
似た状態に陥った人はおそらく
僕と同様 帰宅後大急ぎで
i-Tunes storeから「fish story」の
(劇中オリジナルバージョンではなく)"斉藤和義ボーカルバージョン"を
ダウンロードして買うか
もしくは 多くの観客がそうしていたように
劇場の売店でパンフではなく映画のサントラCDを
記念に買って帰ることになるだろう