2013年5月26日日曜日

「ホーリー・モーターズ」

誰しもが人生という舞台の上に立っていることを気付かせる序盤のシーンが、「愛、アムール」と少しかぶったのは偶然だろうか。
演じられるのは特定の人にとってもっとも愛に満ちたものとなるために示されたパーソナルな情熱であり、
世界中のあらゆる人々にひとりでも多く振り向いてもらうためにへつらったものでは決してない。

「オスカー」という映画界をリードする宿命を背負ったような本名を持つ映画監督(と、知ったような書き方をするが、正直に言うと本作を観るまでこの事実は知らなかった。)が「holy」という商業映画の中心地(「hollywood」)に似たタイトルを冠した新作からは、映画に重ね合わせた人生の死のにおいが漂う。
ラストでまるでディズニー映画を実写化したように印象的な形で登場する車たちを表す「motors」という単語も、そういえば「mort」(=死)に似ている。

上述した監督の本名(オスカー)を役名に配したドニ・ラヴァンは、まるで莫大な予算をかけて11人のスターをハリウッドに集結させた「オーシャンズ11」をあざ笑うかのように(根拠はないが、11という数からそう思った)、タイトなスケジュールの中一騎当千であらゆる人々の人生の重要な局面を1日で1人11役こなし、映画の死に抗い、人生に意味を持たせようとする。

しかし、映画と撮る技術は飛躍的に進歩したことが、テクノロジーによって物質的な豊かさを享受してきた人間の精神的な荒廃を同時にあぶり出してしまう。人間の精神が消えてしまった物質としての人間たちの墓場までもが、そうとう笑えない形で登場する。モノを消費し尽くした人間の行きついた先からは、精神的に成熟した超人ではなくモノを物理的に必要としない、モノとの物理的なぬくもりをも捨て自分自身が透明な物質になってしまったような世界が見えてきそうだ。

モノに高い精神性が宿れば、モノは物質として残され人間の有限な生命を超えて永遠に存在し続けることが出来るだろう。だが人間は利便性や効率を追求するあまり、モノを物質的な存在感のない透明なものに進化させ、結果としてモノから人間の精神を消してしまっているのではないか。

そんなかつての人とモノとの間にぬくもりがかろうじてあった頃を悼むように、カイリー・ミノーグの歌声は潰れた百貨店の薄暗く広い空間に美しく響きわたる。

怪物が絡み合うアニメーションのリアルな動きをつくるためにモーション・キャプチャーを録るシーンがとても印象に残った。なぜなら、実際のCGよりも裏方である生身の人間の絡みのほうがなまめかしくエロティックであるという逆転が起きていたからだ。
CGが主であり役者が従であるという、ここでの関係はくつがえりはしない。それでも、役者は映画という人生に自らを刻むように、人間の性的衝動を高い身体能力で描写する。そこに映画という人生の死に人間として尊厳を保ちながら立ち向かってゆく誇りと美しさを強く実感する。

かつては映画を娯楽と呼ぶのは楽観で肯定的なニュアンスが強かった。
だが今日の娯楽化した映画界の状況を果たして手放しで喜べるか。また、そうさせたのは誰か。
カラックスが重い腰を上げて撮った渾身の一作に、映画を追い続けてきたひとりの観客として大きく揺さぶられ、震えた。
やはり自分はシネコンだけの世界では、生きることも死ぬこともできそうにない。






2013年5月20日月曜日

ミランダ・ジュライ「君とボクの虹色の世界」

「the Future」と立て続けに観て、2作に共通する部分を漠然と思い描いた。

ネットが表現や自己実現の手段となったことは他者との比較を強迫観念的に強化したり
リアルに吐き出せない心の奥底が「コピペ」によって充足してしまったりする。
でも何かしらの突破口が用意されていて、それはハッピーとは限らないしベストなのかも定かではないけれど、
当事者たちは現状肯定して受け容れているように見えるところに人としての美しさを感じる。
主要な登場人物には鬱屈したものを抱えている傾向が強いが、観終わったあとにはすがすがしさや潔さが残るのは本当に素晴らしい。


「君とボクの虹色の世界」は、都会にある有名ブランドの路面店ではなく郊外のショッピングモールのあか抜けない靴売り場が舞台のごくありふれた日常の話なのだが、
設定や登場人物に少しだけクセのあるところをつくり(とはいえそれも現実に十分ありうるものだ)、それと映像の切り取り方や的を得た音楽やさりげないインテリアの小物などがまじり合い、リアルなのにファンタジックでコミカルなのにシリアスに胸を痛める、他の誰にも代え難いハイセンスな作品。
「他の誰にも代え難いハイセンスな作品」なのはもちろん「the Future」についても同様だ。


ミランダ・ジュライ自身のセンスが「他の誰にも代え難い」ことに掛けて言えば、彼女の作品に触れると人の代替可能性を強く意識する。
特別な何かを手に入れたりしなくても人は他者とは交換不可能なものを持っていて、それはとても誇らしい。
劇中で全てが丸くおさまらなくても余韻の中に爽快が湧き立つのはおそらくそう思えるからだろう。





2013年5月14日火曜日

チェルフィッチュ「地面と床」公開リハーサル

「地面」とは日本の現在で「床」は日本の過去や歴史、前者が正者で後者が死者である、与えられた情報の中からこう推測する人はおそらく少なくない。
そうだとしても(あるいは違ったとしても)、それがどうなる話になるのか、とても楽しみだ。

『三月の5日間』 では湾岸戦争から情報をシャットアウトして渋谷のホテルにこもる若者の話だったが、
今回は日本と中国が戦争をするという「いやな夢」を見るシーンがあることから、登場人物にもどうやら家族という軸が比較的強く設定されているようだ。
要するに、「チェルフィッチュ=若者」という初期の紋切り型な表現は、近作を観ていないリトマス紙になる以上に的を得ないところまで変化してしまった。

ただ一方で、リハーサルでたった2シーンを観ただけでも、これまでチェルフィッチュが支持されてきた「らしさ」を失わないというか、「らしさ」の集大成になりそうな予感がして、わくわくした。これについては以前Dommuneで本作の公開リハを行った際に、岡田利規はチェルフィッチュがクローズアップされてきた要素も排除せず盛り込むという趣旨のコメントをしていた記憶がある。(※記憶があいまいなため氏の正確なコメントを思い出せなかったが、文意はコメントから大きく逸脱してはいないはず)

「らしさ」とのつながりで、リハーサルから浮かび上がったキーワードがふたつある。「フィジカル」と「音楽劇」。

「フィジカル」は岡田氏が役者に向かって「『メンタル』ではなく『フィジカル』(に体を動かせ)」と何度も指示を出していたとても印象的な言葉だったのだが、これはリハーサル後の質疑応答で「チェルフィッチュ内でしか伝わらない言葉」と断った上で、「『メンタル』に体を動かすと動きが役者の『内』のものになってしまう。そうではなくて、『フィジカル』に動かすことで体の動きを『外』にいるお客さんへサーブ(serve)したい」と解説をされていた。

「音楽劇」という言葉には、音楽が劇伴になるのでも「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」のように音楽が主で身体が従になる形でもなく、
「音楽と役者の動きが同列に動いて入り混じることで、(演劇の)先を見たい」という意味が込められているようだ。

「フィジカル」な「音楽劇」である本作「地面と床」を、リハ後の質疑応答で岡田利規は「能」にたとえていた。
「能」にたとえるのはチェルフィッチュを語る際にしばしば見受けられるが、岡田氏本人の口から直接この表現で解説されるのは驚きもまじりつつ感慨深かった。

「メンタルではなくフィジカル」と聞いたときに、今回の重要な登場人物に幽霊が出て来ることとの整合性が当初つかずにいた。
幽霊がフィジカル?幽霊ってメンタルの表象みたいなものじゃないの?と。
能の舞台でも幽霊が登場することがあるが、どうやらそれは「役者が幽霊を演じている体(てい)」というニュアンスがあるらしい。
それになぞらえれば、幽霊が「フィジカル」に動くことに違和感(?)はない。


公開とはいえリハーサルに立ちあうのは部外者ほど余計緊張してしまう気がして、
入場して開始までは正直この場にいるのを後悔するくらいの重々しい気持ちが行き来していた。
でも岡田氏のあいさつのあと登場し笑顔で手を振る山縣太一の姿を見て、そんな杞憂はいっぺんに吹き飛んでしまった。





2013年5月7日火曜日

『美術品はなぜ盗まれるのか ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い』

「美術品を金銭で評価することは是か非か」という命題に対する正しい回答とは何だろうか。


仮に、美術品を金銭的な評価から切り離して別の尺度で表そうとしたとしよう。その場合、別の尺度で高く評価されたものが金銭的には低い評価しか得られないなどということは
有り得るのだろうか?市場の目に留まる前ならば起こり得るのかもしれないが、やがては資本主義の網の目に取り込まれていくのは自明であろう。

これは何も美術品に限った話ではないというよりもむしろあらゆる財に共通するメカニズムであり、少なくとも資本主義社会が成熟した「健全」さを物語る証拠にはなっているはずである。

ただ、美術品の場合「市場の目に留まる」ための仕組みが経済とは別のレイヤーにあって「目利き」が市場の「外部」に存在することは有り得るのかもしれない。
(そうであることを信じたい)

本書の大きな読みどころは、「健全」な市場メカニズムに闇社会という「不健全」な変数が盗難によって紛れ込むと美術品の金銭的な評価が跳ね上がってしまうという、美術品市場の経済的な「健全」さ(?)にあると思う。これは美術品が「市場の目に留まる」ための「目利き」が市場の「内部」に存在することの悲劇であり、美術品が専ら投資目的に扱われる風潮への冷や水なのであろう。

だから、現代の成熟した資本主義において美術品が他の財と同様に市場で金銭的に評価されることは社会が「健全」である裏付けにはなったとしても、それは「美術品を金銭で"のみ"評価すること」とイコールではない、というところまでは言い切ってよいのではないだろうか。


盗まれたターナーの二点の絵のテーマが<光と闇とが相互に依存していることを提示する>というのは出来過ぎなくらいよく出来た話。
しかしターナーがこの絵によって「陽である光が、陰である闇を支配する力をもつ」ことを明らかにしようとしていたことを「闇」の側にいる盗み手は知らなかったはずだ。









2013年4月12日金曜日

「世界にひとつのプレイブック」

予告でこの曲を聴いてからとても観たくて仕方がなかった。

CDやiPodで聴けば、とか、そういうものではなく、この曲がベストなタイミングで流れる映画であることへの期待が胸を高鳴らせたのだと思う。

曲の使われ方はとても意外だった。でもその使われ方というのが邦画にありがちなタイアップ丸出しな曲が外れた痩せた歯茎と入れ歯のようなガタガタに浮いたものではなく、
ストーリーの根源をなす位置づけをされていて、名曲に恥をかかせないどころか、名曲が名画への御膳立てをする重要な役割をしっかりと担っている。

繰り返しになるが、映画の中で曲が流れる意味合いは予告で予想していたものとは大きく異なる。
しかしながら、予告でこの曲が流れたときに感じた第一印象、あえて言葉にするならば"幸せな気持ち"、は本編を観終わったあとに残るものと同じだった。
キャラ設定やストーリーにひとクセありそこにたどり着くまでは予想もつかなく、また、上手くいかないことも多々あるわけだが、
それこそ人生そのものだという直喩でもあり隠喩だと思えばより一層感動が極まるのではないか。
人生がうまくいかないということで言えば、主人公の父(ロバート・デ・ニーロ、職業は"ノミ屋")がコントロールどおりにはいかない人生における賭場を
息子(主人公)に忠言するシーンも素晴らしい。

主人公ふたりがお互いの腹を知った上で感情をときには押し殺しときにはエキセントリックにむき出し掛け合いながら話が進んでゆくところに、
この映画いちばんの魅力を感じた。もともとこういう設定で男女が絡む話が好きだからだ。
だから、これを観て思い出したのが「結婚できない男」。以後阿部寛を"アベちゃん"と呼ぶに至る自称"アベちゃん"好きを決定づけたドラマ。
もちろん、夏川結衣のあの腹の底では"アベちゃん"をうすら笑いながら涼しい顔をしつつも時折女ごころをチラ見せする名演あっての"アベちゃん"なのは、
力説せざるを得ないわけだが。

'My Cherie Amour'を流しながら「結婚できない男」を観る、という実験を今度してみようと思う。








2013年3月13日水曜日

「暗殺の森」

とにかく、絵画のように美しい。

そこそこ映画好きという自負はありながらも初観賞。巨匠の最高傑作とも言われる本作をスルーしてしまっていたのは、
(ほぼリアルタイムに「ラスト・エンペラー」等の近作を観たイメージから)嫌いではないもののベルトリッチにはいまいちハマれない何か重々しい感じが邪魔していたからだ。

光の使い方が天才的。
列車のガラス越しに遷ろう太陽はエロティックな美しさを醸し出す隠喩となり、ブラインド越しに差し込む光は調度品ひとつひとつに至るまで気品を与えている。

「ここは美術館じゃないのよ」というセリフに「はなればなれに」ルーブルを闊歩する3人を連想するくらい、映像にはゴダール好きを表層的に感じてしまう。
色は違えど「気狂いピエロ」を匂わせるシーンもあり、部屋の色に見覚えのある原色の青が強調されているのもとても印象的だ。

撮影監督のヴィットリオ・ストラーロについては詳しく知らなかったが、
ほぼ同時期(1969年。「暗殺の森」は1970年)にダリオ・アルジェントの監督デビュー作「歓びの毒牙」も撮っている。
原作をもともとベルトリッチが映画化のアイデアを温めていたのを最終的にアルジェントに託した、というエピソードがもし本当であれば驚きだ。
(さらに、彼は「地獄の黙示録」も撮っている。「地獄の黙示録」と「気狂いピエロ」は...とか考えるといよいよ頭がおかしくなりそうだ)

なぜ、今、このタイミングで?旬でいえばフランシス・ベーコンつながりで「ラスト・タンゴ・イン・パリ」だろ!というツッコミに対しては、
これの恩恵以外の何者でもないと答えておこう。
いやでもこれは近々ブルーレイかDVDで買い直したいと思えるくらいに素晴らしい!












2013年3月12日火曜日

「脳男」

主人公「脳男」の生きざまを象徴するかのようにカラヴァッジョが引用されていて、すぐさまメランコリア」を思い出した。
キルスティン・ダンストが不安定な情緒に導かれるようにバウハウス系抽象絵画をカラヴァッジョに掛け替える、とても印象的なシーン。
その後彼女が辿り着いたあの境地と、「脳男」の登場人物それぞれの根底にある感情/無感情は、はたして似ているのか違うのか。


あと気になったのは、「脳男」とともに物語の核心部分を形づくってゆく女性精神科医の机の上に、
比較的目立つように置かれていた『逆抵抗 心理療法家のつまずきとその解決とい本。
調べたところ、治療する側の無意識のバイアスが治療される側にマイナスの影響を与える(「逆抵抗」)可能性があることについて書かれているらしい。
鑑賞後にこの「逆抵抗」という存在を知れたのは、この映画を振り返る上でとても有意義だった。


人は多くの「真実」と思って疑わないバイアスを一生疑わないまま生きていて、
「『真実』という仮面をかぶった自覚がないという偏りがある」純粋さは人生にドラマを生みだしているのかもしれない。


2013年2月19日火曜日

「UPSIDE DOWN」

イギリスのインディ・レーベルクリエイション・レコーズの歴史を創始者アラン・マッギーのインタビューを中心に振り返るドキュメンタリー

クリエイションの成功をプライマル・スクリーム「スクリーマデリカ」と位置付けるならば、その花が開いたことと
アラン・マッギーが拠点をあのハシエンダがあるマンチェスターに移した影響は計り知れない。

ひとつは「アシッド・ハウス」という流行語なのかジャンルなのかさえもあいまいなくらい音楽シーンを席巻したマンチェスター発のクラブ・ミュージックとの接近。

そしてもうひとつは、ハシエンダに出入りして音に浸るうちに音以上にのめり込んでいったかもしれないドラッグ。

アランがプライマルのボビーにドラッグをすすめた話が本編アランのインタビューによって語られていたが、後にプライマル・スクリームが「loaded」でヒットを飛ばし
そして傑作アルバム「スクリーマデリカ」を完成させたこととドラッグの件は無関係ではないとみるのが自然なように思える。

マンチェスターに移りプライマルが成功をおさめたころのアランは、より高いところへと向かうためドラッグに自らを染めていったのだろう。
しかし、経営が悪化し大手ソニーの力を借り次第にインディ・レーベル色が薄れていったころのアランは、不安定な精神状態をドラッグに溺れることで
なんとかバランスを取ろうとしていたのかもしれない。

それでもその後OASISというダイヤの原石を見出したりクリエイションで華々しくデビューを飾り一度はレーベルを去ったジーザス&メリーチェインが行き場に迷うと
救いの手をさしのべるあたりの目利きと人間味は確かなものであり、胸が熱くなる。

結局経営が立ち行かなくなったためレーベルの歴史は幕を下ろすこととなったが、クリエイション・レコーズが輩出したバンドや出身のミュージシャンは
音楽史を第一線で書き換え続けている。





2013年2月17日日曜日

ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム






とても感動した。

高い解像度と鑑賞者へ工夫を凝らしたインターフェイスを駆使すれば、

複製画の展示でここまで面白く出来るものなのか!

企画制作に携わったスタッフの方々を胴上げしたくなるくらいにとても。



この展覧会を観るまで、自分はボッティチェッリが描く女性には惹かれないと思っていた。
うやら勘違いだ。

地デジに移行して芸能人の顔が変わって見えたのと同じように、高解像度の複製画のおかげでそれに気付けた。

逆に実物を観て同じように勘違いと気付けたか...と考えると、この展覧会がどれほど意義深いものであったかが、はっきりとわかる


アンケート内容とその回収方法にも、うなった。

ここにも鑑賞者が何を欲してるのかを熟知した仕掛けが。

「『教養』と聞いて連想するものは?」というアンケート項目があったのだが、

「今までなら『百科事典が入った本棚』と答えたが本展を観たあとでは『iPad』が浮かんだ。」

と記入したのは、我ながらこの展覧会らしいと思う。




2012年11月28日水曜日

名和晃平 個展「Kohei Nawa-TRANS | SANDWICH」

百貨店リニューアルのこけら落としに合わせ「平場」をイメージしたのか否かは定かでないが、
国内初披露の新作<>も含めたこれまでの作品を白い台座にガラスケースはおろかスロープすら設けられていないむき出しの状態で載せ、
順路を設けずランダムに展示。

有り得ないほど接近できる贅沢がもたらしたのは、目のみならず"ほほ"で触れ何かを感じるという、これまで味わったことのなかった経験。
作品の力が"ほほ"に伝わる凄さを実感した自覚があるのは今回が初めてだ。

自分が何に感じ入り何を伝えられたのかを上手く言い表すことはできない。
視覚的に言えば、従前の姿を残しつつも科学反応で大きく変化させられた作品群から「既視感」を抜け出た新しいものに出会えた感動は明らかにある。
だが、おそらくそれに留まるだけの話であるならば、作品が"ほほ"を伝う触感、芸術作品から感動を皮膚感覚で味わうという初めての経験は起こらなかったに違いない。

会場をあちこち動き回り、立ち去るきっかけがつかめないくらい時間を忘れ何回も観た。
百貨店に引き寄せて言えば、親に手を引っぱられその場を退けられるまでおもちゃ売り場に夢中
で居座ったあの感覚に近い。
















2012年5月23日水曜日

「ル・アーヴルの靴みがき」


赦しというものが憎しみを前提とするならば、そもそも憎しんでなんていなかったのでは?

という寓話を観ているようだった。


第二次世界大戦終焉の地でもあるフランス・ノルマンディーが舞台。

大戦が終わって訪れたのは平和ではなく冷戦という名の東西対立であり

冷戦崩壊後に直面するのは国家と民族の間で揺れ動く紛争であったというのが歴史認識だとすれば、

この映画で描かれているル・アーヴルにおいては、フランスもドイツもイギリスもインドもベトナムも中国も日本もいがみ合ってはいない。

(フランスが舞台で主人公の妻を病床で寝かしつけるために読まれたのがカフカ!)

いがみ合わないどころか、警察が捜査に来ても犬がシッポを横に振って出迎え、

本来ならば緊迫した場面に心拍数を上げるような音楽を流すようなシーンにおいてもアコーディオンのミュゼットが緩やかに奏でられるくらい、

みな、優しくて、のどかだ。


主人公である靴みがきの名は「マルクス」。

仕事帰りにパンを万引きしても女店主に”つけ”で済まされてしまう。

別の日には山のようなパンを施されたり、隣の店からもあれこれタダでもらえたり・・・

かと思えば、”つけ”があるはずのそのパン屋に頼みごとをするときには引き出しの中からお金を出して渡したり・・・

一見意味がわからない。

それはあたかも、「マルクス」が「搾取」ではなく「贈与」の世界に生きていたならば?という喩えのようにも思える。

また、アフリカからの難民に自由を与える「赤」は『資本論』ではなく「赤十字」の制服や『民法』の書の色であり、

「青」が労働者の証であるジーンズの色という点を踏まえ自由の象徴としてあしらわれているように見えなくもない。

(もちろん、「赤」や「青」は素直にとればフランスのトリコロール。

ゴダール好きのアキ・カウリスマキ監督ということを考えれば「中国女」と無関係ではないのかも知れない。

また、「黄色」が最も重要なカラーとして出て来るのだが、何を象徴する色なのかまではわからなかった。)


”つけ” ているパン屋からパンをタダでもらえたり不法入国の難民をかくまったかどで捜査される警察から友達としてアドバイスを受けるような「マルクス」のまわりは

憎しみのない平和に満ちた世界であろう。

にもかかわらず過去に戦争が起きてしまったというのは実は憎しみ合うよりもっと不条理で残酷だとも思える。

(そこは観終わっても消化しきれなかった。あるいは、観るポイントがズレているだけなのかもしれない。)

それでも、たとえ不条理で残酷な対立を経験したとしても憎しみのない世界に生きることが出来るというのはやはり素晴らしいことであり、

それが不可解さや違和感なくスッと入って来るところに、とても感動した。


















2011年12月31日土曜日

『マザーズ』

先日、思考や価値観を揺さぶるような圧倒的なものについて、という話をたまたましていた。


例えば美術館へ行きすぐさま「あっ、この絵自分の好み。」と言えてしまえる間は、心の奥底で求めているものには出会えていないのかもしれない。
たとえそれが嫌悪や拒絶を含んでいたとしても、即座には言葉に出来ずその場を去ってなお身体の奥に深く重く入り込んだ
得も知れぬ抽象的な存在。
根源的に求めているものとは実はこういうものなのであって、それゆえなかなか得難いものなのではないだろうか、と。


金原ひとみ『マザーズ』にはそんな「得難い」「圧倒的なもの」に遭遇した凄さがあった。

前半100ページ弱を読んだ段階で"母親であることと女であることにさいなまれる姿は同時に人生における自由とは何かを問う"
などと主題を性別分け隔てなく安直に一般化しようとしていた自分を、読後大いに恥じる。


もしこの本を読んでいなければ結婚し子供が生まれたとしてもここに描かれているような女性の葛藤を知らずして男性は死んでゆくのかもしれない
と思うと恐ろしくなりつつ、子を持つ母性と育児に制約を受ける恋愛や性は代償や単純な対立関係として成り立つものではないという
女性が抱く愛憎の深さが男性である自分にも一定の距離を置きつつ知らしめる強烈さに痺れた。


人目につく場所で読んでしまい涙を隠すのに苦労を強いられたが、
それが号泣や嗚咽に至らずに済んだのは自分が男性であることの得した点であり、また、大きな損をしている点であったように思う。




















2011年9月10日土曜日

「ツリーオブライフ」

ビジネスホテルに泊っても聖書を1ページも開くことなくチェックアウトする自分にとって、

この映画を説明する知識など有ろうはずも無い。

また、寡黙と温厚によって存在感を担保しているような父との間に軋轢など全くなく、

経験の側から共感を得るのも、不可能に近い。

しかしながら、知識や経験の欠如をものともせず、それを補うだけの感動を秘めた、魅力的な作品だと思った。



映像に効果的な音楽が重なったときの興奮が映画を趣味とする者にとって何よりも楽しみであるのはみな同じはず。

「ツリーオブライフ」における"それ"が、「モルダウの流れ」

音楽の授業でぼんやりと聞き潜在意識の奥深くに居眠りしていたような曲が、

テレンス・マリックの指揮棒に導かれた魔法のようなシンフォニーで、頭から水を浴びせられたように目を覚ます。



音楽の授業は認知するきっかけであって、感動を得たのは映画の力。

それでも、音楽の授業で"モルダウ=名曲"という回路が思考の中に形成されていなければ、

映画でこの曲を聴いたとしても、美しいシーンだなとは思いはすれ、深い感動を得られたかどうかは不明だ。

そう考えると、"教育なんて学校では教えてくれない"などというのは単純で紋切り型な物言いに過ぎないのでは?と、

学校教育の奥の深さを再発見する旅に出る身支度を整える気分にはなれたのかもしれない。



似た思いを「バッド・エデュケーション」「帰れソレントへ」でもしたことを覚えている。

曲としては「モルダウの流れ」より「帰れソレントへ」のほうが好みだ。

でも、映像とのシンクロによってもたらされる感動は、「ツリーオブライフ」のほうが、遥かに上へ。





今年の夏は、これと「コクリコ坂から」だった。

ともに2回観た。







2011年7月24日日曜日

森山大道写真展「オン・ザ・ロード」

関西では初の大々的な回顧展

なかでも、99点のカラー写真≪東京≫が展示された空間には、とてもヒリヒリさせられた。

"日常がこんなにも猥雑なものであるとは驚きである"という趣旨の感想を事前に多く見受けた通り、
たとえば走り去る電車など性的な何かを直接撮らなくとも他の作品との連関によって
何かしら想像を掻き立てるような展示の構成の妙も手伝い、
日常における99の、あるいは1つ、もしくは無限大の「猥雑」がうごめいているように見える。

60年代の新宿をはじめとする過去のモノクロ作品における被写体の面白さは圧倒的に"人"であり、
比較的簡素なホテルの看板や広告など"モノ"は"人"ありきで惹き立つような印象が強いのに対して、
≪東京≫のカラー写真においては、どこか、風俗の看板など"モノ"のインパクトが強烈で、
"人"は"モノ"を前提として成り立っているような印象をどうしても抱いてしまう。

≪東京≫における"モノ"は、知覚過敏の歯茎のように消費社会でうっ血し腫れあがりつつも、
その視覚的インパクトからは最早消費から距離を置かれた寒々しさや滑稽さが漂い、
唐突に街に並べられたオブジェのようにそびえている。
だが、不思議なことに、欲望を狩り取れぬまま過剰に暴走し孤立したはずの"モノ"の姿が、
欲望の主である"人"の姿と相性良く収まっているようにも見える。

そしてこの、"人"が"モノ"に少し背を向けながらも街の光景がリアルな日常として成立たらしめるものこそ、
「猥雑」なのかもしれない、とも思えた。
街のそこかしこからひっそりと見え隠れする"人"のうごめく欲望の有様と、
欲望の矛先とならず立ちつくした"モノ"との距離が、
交わらないことによって違和感なく共存する不自然さが、とても「猥雑」で面白い。

そう、面白い。
こんな不思議な時代に生まれたことを積極的に楽しむべきなのだ、と。





2011年5月12日木曜日

「劇場版神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ」

昔から、聴く音楽は「ロック」とカテゴライズされるものが多かった。

にもかかわらず、異口同音に発せられる「ロックンロール」という言葉にはどこか、

意味がわからなくつかみどころがないのみならず、少なからぬ抵抗をずっと引きずってきた。

この映画を観終わり、ようやくそれに折り合いが付けられた気がする。


映画に沿って自分なりに考えた「ロックンロール」とは、

良い/悪い、ポジティブ/ネガティブ、といった評価の軸で都度価値判断するのではなく、

淡々と流れる物理的な時間をまさに"石が転がるように"嬉しくても悲しくてもとにかく前へ進み、

結果としてぼんやりと見えて来るものを肯定すること、だった。


闊歩する「ロックンロール」という言葉の中にはどこか、上から目線で、

薄っぺらい割には画一的な型にはめることを強要するものを時折含んでいる気がする。

そこに少なからぬ違和感や不信感が今まではあったのだが、

映画を観てそれらは「ロックンロール」と呼ぶ必要はないとわかってから、楽になった。


そして、「ロックンロール」が上から目線ではなく万人のものであるということと、

ソーシャルメディアの隆盛目覚ましいまさにいまの時代を生きていることとの大いなる関連を、

強く実感せざるを得ない。

ソーシャルメディアと映画と言えば、もちろん「ソーシャル・ネットワーク」が浮かぶ。

だが、マーク・ザッカーバーグをモデルにしたアメリカの学園モノラブストーリーにはどこか、

しょせんソーシャルメディアの作り手にまつわる他人事と冷めてしまうところもあった。

それに比べ「劇場版神聖かまってちゃん~」には、ユーザー目線の当事者意識がもたらす、

えも言われぬ感動がたくさん詰まっている。

劇中でバンド「神聖かまってちゃん」自身が何か強烈なメッセージを流すというよりもむしろ、

「神聖かまってちゃん」がライブやストリーミング配信を見る登場人物の集合的無意識に働きかけ、

見ているひとりひとりの「ロックンロール」を覚醒する存在であることは、

遠からず映画を観ている観客にもその興奮が直に伝わり、感動をシェアし得るものになっている。

であるならばやはり、「ロックンロール」という何か1つの画一的なメッセージがあるのではなく、

twitterやFacebookで好き勝手に「なう」「なう」言いながら時間が経てばTLから消えていく言葉の裏側に、

消費されない「ロックンロール」という目に見えない存在を潜在的にシェアしていることに、

希望を見出したい、と言いたくなる。


そこに、ソーシャルメディア全盛のいま、リアルタイムで、

劇場でこの映画を観るべき意義の大きさを強く実感した。





2011年4月24日日曜日

『少女』





アンヌ・ヴィアゼムスキーの映画女優デビューを舞台にした自伝的実名小説。

大人の顔をのぞかせては引っ込めつつ成長してゆく様と、

新人女優から一人前の映画人として自我と居場所を手に入れてゆく過程。

「少女」はこのふたつを、

老紳士「ロベール・ブレッソン」と彼が監督する映画において、互いに絡み合いながら経験してゆき、

その時々に感じた彼女の内面が鏡に映った自分を語るように、赤裸々に綴られてゆく。

ヨーロッパ映画ファンは必読!そうでない方もぜひーー!!


・・・


きれいにまとめようとすると、おそらくこんな感じになるのでしょうが・・・

甘 く 見 て ま し た 。

後半、ページをめくる手が止まり、放心状態になること数分。

他人事で血の気が引き顔面蒼白になったのは、久しぶりです。



再び読み進めたところ、

後の出演作での監督でもあり夫でもあった「ジャン=リュック・ゴダール」との、初対面のシーン。

「ロベール・ブレッソン」との力関係も相まって、コミカルなキャラクターで描かれている。

ようやく落ち着きを取り戻し平静を保てそうだ、ゴダールありがとう・・・

・・・!!

今度は驚きで心臓がバクバク言い始めてしまいました。



そんなひと波乱もふた波乱も強烈なエピソードを交えつつも、

世界のすべてを知り手に入れてしまったような無敵な強さと、

ふと我に返り今も何ら変わりない子供の世界を生きていることに揺り戻されたときの悲しさが、

「少女」の中で行ったり来たりする様子を、

彼女自身の言葉で、包み隠さず、鮮やかに、そしていきいきと描かれるのを見ると、

"高2の夏休み感覚"が去来して、

胸を締め付けられながらも、きゅんとさせられます。


もちろん、告白本や暴露本ではなく、自伝的実名小説。

事実関係や語られていること/いないことの判断はしようもありません。

でも、「少女」が飛び込んだ「映画」の世界が、

ひとくせある個性的な登場人物たちによって、とても魅力的に描かれていて、

読んでいるうちに、「少女」にとっての「映画」が、

人生の過去を顧み現在と未来を考えるための示唆を与えてくれるように思えてくる。

それこそが小説たる所以であり、それでいい、それがいい。そう思います。




2011年4月3日日曜日

「SOMEWHERE」



しばしば女性が男性を評して使う「かわいい」という言葉は、

同性の目からはなかなか実態をとらえにくいものです。

それが、スティーヴン・ドーフ演じるジョニーを通じ、はじめてわかった!

僕がこの映画を観て感動した最大のポイントは、そこでした。


ジョニー(スティーヴン・ドーフ)がオープンテラスのカフェでたたずんでいる姿を見て、

二人組の女性客が「彼、かわいいわね。」と言うシーンが、前半かなり早くに出て来ます。

ここで、ジョニー=「かわいい」と動機づけられると、ソフィア(・コッポラ)の女性監督たる強みが本領発揮。

筋肉質で胸毛も生えた大人の男性がなぜ「かわいい」のか?という命題が、

説明される必要も無く、いつの間にか当たり前の既成事実として証明済になってしまうすごさ!


繰り返しますが、大人の男性を「かわいい」という女性特有の感覚を、

男性の側が感じ取ることが出来るのは、奇跡に近いと言いたいくらい稀なことだと思います。

母性本能と関係があるのか?ないのか?

「ブラウン・バニー」のヴィンセント・ギャロは「かわいい」のか?そうではないのか?

これらは、男性が知ろうと思っても普通はなかなか知ることは出来ないはず。

しかしながら、「SOMEWHERE」のスティーヴン・ドーフは「かわいい」!断言出来ます。


彼の「かわいい」は、背中に悲哀があります。

その悲哀のうちかなりの割合を占めるのが、可愛い娘を悲しませない、ということ。

クレオ役、エル・ファニングの可愛さについては、語るのが野暮です。完璧。

パンフレットのプロダクション・ノートに書かれていた彼女の設定は、なるほどと思いました。




セリフの中に散りばめられたクスッと笑ってしまう小ネタも最高。

たとえば、「ダサいレオタード」「ヴァンパイア」、僕の勘違いでしょうか。


観ていて嫌な気分になるシーンがひとつもなく、すがすがしく映画館を出ることが出来たのは、

この時勢このタイミングで公開され、これ以上を望むことがないくらい、

最高のプレゼントだと思います。





2011年3月1日火曜日

「白いリボン」



おそらく、犯人がわからない奇怪な事件が生む疑心暗鬼と、

ドイツが抱えてきた戦争という暗く深い闇を、重ねて描いているのだと思います。

後者については、僕は日本人でありヨーロッパに生まれ育ったわけではない分、

憶測の域をぬぐえないのは確かです。

しかしながら、こういった歴史的背景云々を抜きに観ても余りある観客を打つ強さが、

十分に詰まった作品だと思います。


断続的に出てくるサディスティックな描写を目の当たりにして込み上げてくる、居心地の悪さ。

これをどこへどう逃がせば心が落ち着くものか、最後までわからぬままでした。

これがもし監督の意図に含まれているならば相当タチが悪いですが、ハネケだけに、十分ありえます。



観る側のこちらも、いつの間にかモラルを逸脱し映画の世界に惹き込まれていたことを、

正直に告げなければなりません。

実際、一番好きなシーンは、ドクターとその娘が夜中にふたりきりで部屋に居たのを目撃された場面でした。



そして、子供達が讃美歌をうたうシーンは、本当に美しかった。

この情景が何かを暗示している、あるいは、それを抜きにして考えたとしても。






2011年2月21日月曜日

「冷たい熱帯魚」

っかつ配給の18禁映画。

18禁の意味は"そっち"ではありませんでした。

血しぶき湧き肉片踊る、大人の娯楽大作映画です。




館内に貼られていた記事で園子温監督は、

「救いの要素は全くないが観終わったあとスッキリする映画を撮りたかった」とコメントされていたのですが、

この言葉に尽きると思います。


実在する事件にさらに幾つかの猟奇的事件をトッピングした上で、

設定を熱帯魚店を営む家族(の感情のすれ違い)に変えて話は構成されています。

まったく救いようがないのを嘲るかのようにスプラッター・ホラー並みに血しぶきが飛ぶ、

逆に言えば、残酷極まりない危ない橋を渡りながらも全く救われない、血も涙も無い話です。

(いや、血はイヤというくらい出て来るのですが…)


では、こんな話がなぜ「スッキリ」するのか。僕は2つの要素が浮かびました。


1つは、コミカルな点です。

話の軸となるキャラクターの行動に最初は目をそむけたくなるものの、

次第に(観る側の慣れも手伝ってか)それが滑稽で哀れに見えてきて、

クスッと笑えてしまう感覚が終わりに近づくほどより敏感になってゆく気がしました。


もう1つは、「救われない」というまさにその点において、です。

熱帯魚店の父が家族の再生を夢見て奔走する姿は話が進むにつれ痛々しく真剣さを増してゆきつつも、

救いようのなさもまた、あろうことかそれに反比例(正比例?)してしまっていました。


そしてラストには大ネタが控えているのですが、

ここで「救われなさ」と「コミカル」が見事に交差して、

エンドロールを「スッキリ」した気分で迎えることが出来るように、話が上手く組み立てられていたと思います。


「世の中そんなうまくいかねーよ!」と希望を完璧に捨てさせられあきらめてしまえば、

そのあきらめの境地が次第にすがすがしく感じてきて、逆にポジティブな気持ちが芽生える、

そんな感じでしょうか。







余談ですが、「紀子の食卓」→「時効警察」と連なる園監督のセルフパロディに思えるシーンもあり、

面白かったです。








2011年1月5日水曜日

快快 「Y時のはなし」







とにかく笑って、笑って、笑って、泣ける舞台でした。




演劇とダンスが融合した舞台は最近でこそ珍しくないですが、

快快の「Y時のはなし」はそれだけにとどまらず、人形劇、アニメ、ゲーム、お笑い、電子音楽、

あらゆる要素(無理矢理ひとことで言うならば"ハッピーになれるもの")を採り入れながら、

伝わってくるハンパない生の感動がまぎれもなく"舞台"であることが、

とてもとても素晴らしくて。




鑑賞後数日間は快快のハッピーなオーラが頭じゅうを覆い尽くし、

他の事が考えられなかった。考えたくなかった。


時代の空気や流行をしっかりとつかみつつ、

ポップでありながら実際はとても前衛的で尖った表現活動をすること。

それを可能にするポテンシャルの高さがとてもまぶしいです。


(2010年11月5日 アトリエ劇研にて観賞)