2013年5月14日火曜日

チェルフィッチュ「地面と床」公開リハーサル

「地面」とは日本の現在で「床」は日本の過去や歴史、前者が正者で後者が死者である、与えられた情報の中からこう推測する人はおそらく少なくない。
そうだとしても(あるいは違ったとしても)、それがどうなる話になるのか、とても楽しみだ。

『三月の5日間』 では湾岸戦争から情報をシャットアウトして渋谷のホテルにこもる若者の話だったが、
今回は日本と中国が戦争をするという「いやな夢」を見るシーンがあることから、登場人物にもどうやら家族という軸が比較的強く設定されているようだ。
要するに、「チェルフィッチュ=若者」という初期の紋切り型な表現は、近作を観ていないリトマス紙になる以上に的を得ないところまで変化してしまった。

ただ一方で、リハーサルでたった2シーンを観ただけでも、これまでチェルフィッチュが支持されてきた「らしさ」を失わないというか、「らしさ」の集大成になりそうな予感がして、わくわくした。これについては以前Dommuneで本作の公開リハを行った際に、岡田利規はチェルフィッチュがクローズアップされてきた要素も排除せず盛り込むという趣旨のコメントをしていた記憶がある。(※記憶があいまいなため氏の正確なコメントを思い出せなかったが、文意はコメントから大きく逸脱してはいないはず)

「らしさ」とのつながりで、リハーサルから浮かび上がったキーワードがふたつある。「フィジカル」と「音楽劇」。

「フィジカル」は岡田氏が役者に向かって「『メンタル』ではなく『フィジカル』(に体を動かせ)」と何度も指示を出していたとても印象的な言葉だったのだが、これはリハーサル後の質疑応答で「チェルフィッチュ内でしか伝わらない言葉」と断った上で、「『メンタル』に体を動かすと動きが役者の『内』のものになってしまう。そうではなくて、『フィジカル』に動かすことで体の動きを『外』にいるお客さんへサーブ(serve)したい」と解説をされていた。

「音楽劇」という言葉には、音楽が劇伴になるのでも「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」のように音楽が主で身体が従になる形でもなく、
「音楽と役者の動きが同列に動いて入り混じることで、(演劇の)先を見たい」という意味が込められているようだ。

「フィジカル」な「音楽劇」である本作「地面と床」を、リハ後の質疑応答で岡田利規は「能」にたとえていた。
「能」にたとえるのはチェルフィッチュを語る際にしばしば見受けられるが、岡田氏本人の口から直接この表現で解説されるのは驚きもまじりつつ感慨深かった。

「メンタルではなくフィジカル」と聞いたときに、今回の重要な登場人物に幽霊が出て来ることとの整合性が当初つかずにいた。
幽霊がフィジカル?幽霊ってメンタルの表象みたいなものじゃないの?と。
能の舞台でも幽霊が登場することがあるが、どうやらそれは「役者が幽霊を演じている体(てい)」というニュアンスがあるらしい。
それになぞらえれば、幽霊が「フィジカル」に動くことに違和感(?)はない。


公開とはいえリハーサルに立ちあうのは部外者ほど余計緊張してしまう気がして、
入場して開始までは正直この場にいるのを後悔するくらいの重々しい気持ちが行き来していた。
でも岡田氏のあいさつのあと登場し笑顔で手を振る山縣太一の姿を見て、そんな杞憂はいっぺんに吹き飛んでしまった。